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2016/11/16

月下の手向(3)

「座ってくれ」
「おう」
 柔道の稽古なら受けたことのあるアキラは、隆輔から距離を置いて、フローリングに正座すると、拳を膝に置いた。隆輔は膝元に横たえていた刀剣をつかんだ。
「まず、これを見てくれ」
「お、おう」
 アキラは思わず背筋を伸ばした。むずかしい作法があるのかと思ったが、隆輔は正座したまま、下げ緒を巻いていない黒塗りの鞘から、スラリと抜き放った。
 蛍光灯の下、長い刀身を濡れたような輝きが走った。アキラは心臓を冷たい手でわしづかみにされたように思った。
 アキラの仕事は金属研磨だ。機械部品を磨き上げる。それが音もなく、滑らかに廻転するように、ノギス片手に。勤続二十二年。
 その経験が、微妙な曲線を描く玉鋼の鍛造と研磨の技の高さを体に教えた。全身が細かく震えた。心臓は冷たい手に触れられて止まったと思った次の瞬間には激しく打ち始めた。風呂上りの清潔な腋に新たな汗がにじんだ。拳は固く閉じたまま、身動き一つならなかった。
 隆輔が軽く手首をひねると、刀身に波打つような刃紋が浮き上がった。鍔元から刃先にかけて、刀身が脈を打ったかのようだった。一瞬のことだった。が、アキラは命の宿りを見たと思った。
 と、隆輔が大きく刃を返した。本人の眼前に垂直に立てるように構えた。彼の膝元には小箱があった。彼はその中から布きれと小瓶を取り出した。片手で小瓶の蓋を開け、その中味を布に少量落とすと、鍔元で刀身を包み、そのまま刃先に向けて、ひと拭きした。それから、鞘に収めた。パチンと音がした。アキラを見た。
 えらく、あっけなかった。アキラは理解した。
 これが隆輔の日常だった。気負うほどの理由づけも作法もなく、時おり刀身に油を塗る。アキラにとってのオートバイと同じだ。
 彼はこうしてアキラと出会う前の日々を生きて来た。これからも生きていく。アキラの脳裏に、昨夏に初めて見た石上聖一の遺影が浮かび、眼前の隆輔の顔と重なった。

 血のつながらない義兄弟。その深い契りの前に、アキラ自身は何者でもない。

 しかし、そのことは今日のアキラをかつてのような卑屈な気分にはさせなかった。アキラは深呼吸した。呼気でさえ金属を錆びさせる。それを知っている体は、反射的に息を詰めていた。
「ありがとう」
 隆輔には日常かもしれないが、アキラには急に遠いところへ連れて行かれて、帰ってきたように感じられた。生まれ変わって、新たな呼吸を始めた、その第一声は、我ながら素直な感謝の言葉だった。
「うむ」
 隆輔は浅く笑った。しかしその目元にはまだ緊張があった。アキラは「じゃあ飯にするか」とは行かないようだと覚悟した。石上さんよ、と胸の中で語りかけた。

 あんたの弟は、この期に及んで何を言おうとしてるんだい?

「聞いてくれ」
 隆輔が静かに言った。
「おう」
 アキラは穏やかに答えた。
「貴様にとって気分のいい話ではないと思う」
「だろうね。気分のいい話だったら食いながらでも出来るもんな」
 隆輔の喉がゴクリと動いた。前置きしておいて、褐色の眼を逡巡に揺らがせた。アキラは彼なりの間合いを待ち受けた。すると彼が深呼吸した。裸の胸ではなく、締まりのいい腹がふくらんだ。腹式呼吸で気を整えて、なにを抜かそうというのか。
「俺は」
「おう」
「そのな」
「おう」
「さっき、月を見ながら考えたんだ」
「なにをだい?」
「ここへ引っ越してくる前」
「うん?」
「月を見ては、秀孝を思い出していた」
「そうかい」
 アキラは怒らなかった。どう考えても、それだけで終わる話ではないからだ。だから隆輔に向かって身を乗り出すと「そんで?」と訊いた。
「うむ。寒い頃だった。年末の、いちばん日の短い頃だ」
 隆輔は思い出に浸るように半目になった。
「部活が終わって、帰ろうとすると、夜空に月があって、明るくて、きれいだった。俺は、まだ見てもいないのに、秀孝が天女になって舞う姿をいろいろに想像した。本もそろえた」
「んだな」
 アキラも何回か掃除の際に整頓してやったことがある。隆輔は読んだ内容をよく覚えているが、書籍そのものをあんまり大切にしない男だ。
「でもな」
 隆輔が顔を上げて、アキラをまっすぐに見た。
「俺は本当は、貴様のことを考えていたんだ」
 アキラは返事ができなかった。
「あのころ貴様が連絡をくれなくなって、俺は本当に残念だったんだ」

 いつかアキラは隆輔に、自分のどこが好きかと問うたことがあった。隆輔の答えは「あったかいとこ」だった。

 日没の早い年末の住宅街の片隅で、冴え冴えと冷たい月光を浴びながら、秀孝を思うふりをしてアキラの温もりを偲ぶ隆輔の姿は、アキラの脳裏を席巻するが早いか、鼻の奥をツンと刺激した。
 そのアキラの顔を見て、隆輔は眩しそうな目をした。それからまた硬い顔になった。
「でも、あのころ俺は、まだこれを貴様に見せてやっていなかった。それが俺の中で、……なんというか、負い目になっていた。正直に本当のことを言っていないのに、遠いところをまた会いに来てくれとは言えないと思っていた」
 アキラは目をしばたたきながら、不器用な奴だなと思った。でも、今日は正直に打ち明けてくれているというわけだ。しかし不器用な奴は正直すぎた。
「俺は、あの頃、まだ自分が聖一と二人で生きているつもりでいたんだ。いや」
 アキラは顔色が変わるのを抑えることができなかった。改めて言うことはないじゃないかと思った。しかし、そのアキラを見て、むしろ隆輔のほうが大きく動揺した。
「だから、それがそうじゃなかったって話なんだ」
 アキラは喘いだ。
「……なかった?」
 しゃがれ声で、やっとそれだけ言った。
「うん」
 隆輔が子どものように頷いた。二人は一瞬、無言で見つめ合った。それから隆輔が静かに続けた。
「俺は、あの頃、自分と聖一の間に新しい人間を入れることをいやがっているのだと思っていた。だから貴様に悪いような気がしていた。でも、本当は、貴様と俺の間に誰も入れたくなかったのかもしれない」
「……」
 アキラは無言のまま、弾みかけた心に「ぬか喜びするなよ」と言い聞かせた。隆輔が顎を軽くしゃくって窓を示しながら続けた。
「俺は秀孝が九年も前になくした人のことをずっと想い続けていると聞かされて、自分もそうやって生きようと思った。でも本当は、貴様にもう一度会いたいと、そればかり考えていた。去年貴様がずっと二人だけでいたかったと言った時には、俺もあの頃に帰りたいと思った」
 アキラは思わず手を膝から浮かせ、彼に向かって差し伸べかけた。すると、隆輔が物悲しい顔をした。
「なのに俺は、去年、秀孝から聖一を忘れることができたのかと訊かれて、できないと答えてしまった」
 アキラは自分が瞬間沸騰するのを感じた。思わず宙に浮かせた手を硬い拳に握った。あの野郎。
「そんなこと言ったのかッ」
 隆輔がふたたび動揺した。アキラは腰も浮かせかけていた自分に気づいて、座り直し、深呼吸した。
「だったら、なんでいッ」
 冷静に戻ったつもりだったが、声は震えていた。
「うむ。だから」
 と隆輔がいった。口調には自責の念がにじんでいた。
「俺は、似た者どうしで慰め合おうという彼の誘いに乗った。つまり、貴様に対して、二重に不実を働いた」
「ああ。かもな」
 アキラは彼の反省にはつきあわなかった。
「でも俺ァそれを許した。だから今もここにいるんだッ」
 声は、まだ震えていたが、説得力はあったようだ。隆輔が返す言葉をなくした。
「あんたの言うのはあれだろ? 去年の夏の話だろ? 俺に謝りに来たときのことだろ?」
「いや。……その後だ」
「じゃあ、……じゃあ、あんたが怪我させられた時かッ」
 アキラはもう我慢ならなかった。
「だったら尚さら許せねえッ。あいつはあんたの心のいちばん弱いところを突いたってことだ。試合で言やァ怪我したところだけ叩いたんだ。自分に勝ち目がねェのが分かったから卑怯な手を使ったんだ。それも土下座して謝ってるあんたの体に本当に怪我させたついでにってことだ、畜生、どこまできたねェ野郎だ! ちったァ感心してやって損したッ!」
 自分でも思いがけないほど強い声で、激しい言葉が口から弾け出した。が、隆輔の表情を見て、アキラは自分がすでに秀孝に手ひどい罰を与えたことを思い出した。で、ふたたび座り直した。深呼吸した。
「悪かった。もう怒らねェ」
「いや」
 隆輔の短い返事を聞きながら、アキラは項垂れ気味になった。すると視線の先に石上聖一の形見があった。そのかたわらには隆輔の膝があった。その上に置かれた彼の左手の薬指には、アキラとおそろいの金の指輪が光っていた。アキラは顔を上げた。

 あんたは、なにが言いてェんだ。

 無言の問いかけを隆輔が受けとめた。
「貴様は俺に一度も聖一を忘れることができたのかとは訊かなかった」
「ああ。訊くわけねェだろ」
「忘れてくれとも言わなかった」
「言わねェよ!」
 その代わり、ひどいスランプに悩んだことを隆輔もアキラ自身も知っていた。それでもアキラは石上のことで恨み言をいったことはなかった。聞かせないでくれればよかったのにと思いはしたが、口に出したことはなかった。
 いまの自分たちよりも若くして彼岸に旅立った石上が隆輔に与えた遺言が「早く自分を忘れろ」だったことを知ったとき、アキラが口に出したことは「そんないい人を忘れることができるわけはない」だった。

 石上は、自分自身の無念をおくびにも出さず、まだ若い恋人の将来を慮った。本当に忘れてもらいたかったわけはない。精一杯の虚勢を張って、カッコいい兄貴として思い出に残りたかったのだ。隆輔が忘れられるはずがない。もとより忘れていい人ではない。自分がそれを利用していいわけがない。アキラは本気でそう思っていた。

 だから秀孝の卑怯さは許せなかったが、その気持ちを籠めたとしても、やっぱりやり過ぎだったといえる程度の罰を、すでにアキラは秀孝に与えていた。しかもそのことを隆輔には黙っていた。が、良心の呵責ってやつに耐えかねて、自分から打ち明けてしまった。
 で、秀孝に恥の上塗りをさせてしまったが、アキラは謝った。秀孝は受け入れてくれた。彼からも謝ってくれた。そして今日、彼はアキラたちの前で見事な演技を見せた。

 アキラにとって、二年前の暮れに発した騒動は、今日ほんとうに「けり」がついたのだった。
 が、どうも隆輔だけがまだスッキリしないらしかった。アキラの目の前で、彼の唇がわなないた。そこからしゃがれ声がこぼれ出た。
「貴様は」
「うん?」
「充分に誠意を尽してくれた。でも、俺はそれに相応しくない」
「なんで」
「俺はまだ秀孝を忘れることができていないんだ」

 アキラは世界がグラリと廻るのを感じた。脳裏で秀孝の着ていた舞台装束の月光色と、赤い扇の色と、帰りがけに二人を包んだ透き通った茜色の夕映えと、冷蔵庫の中で冷えている紫タマネギの薄切りと、白い発泡ワインと、その壜の緑色と、隆輔のいくぶん浅黒い肌の色がひとつになって渦巻いた。自分の眼の焦点がふたたび隆輔の眼に合ったとき、アキラは言った。

「だったら、なんでいッ。その話もこないだしてやっただろ!?」
「ああ。そうだ。でも彼は舞台を下がったら、今日も一人だ」
「だから、あんたが俺を見捨てて飛んでいきたくなるってことかい? 俺ァいやだぜ!」
 隆輔の顔が一層強張った。アキラはたたみかけた。
「俺ァそんな卑怯な野郎に遠慮して、はいそうですかと捨てられるのァ、いやだぜッ!」
「ぐッ」
 隆輔の閉じた口の奥から奇妙な声が漏れた。彼の褐色の眼に困惑がにじんだ。アキラは勝機を見た。身を乗り出した。
「どうしたい?」
「いや……」
 道場に見立てた床の上で、なき人の形見の一振りを膝元に、いまだ道なかばの剣道家は、たっぷりと逡巡した。アキラはじっと待った。すると未熟者が眉根をゆがめて、つぶやいた。
「捨てられる、と言われるとは思っていなかった」
「どう言われると思ってたんだい」
 彼は深く項垂れた。
「俺は、自分に罰を与えればいいと思っていた」
「どんな罰だよ」
「どちらとも別れるんだ」
「へッ」
 アキラは理解した。
「それで、自分はまた石上さんと二人だけで生きていくって言うつもりだったのかい」
「う……うん」
 隆輔は顔を伏せたまま、子どものように頷いた。彼の広い肩の先が悄然と下がっていた。



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