宇藤花菱会

Japanese M/M Romance for 18 and over.

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成人向けM/M恋愛小説。
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俺たちの秋(4)

「俺ぁ猫に負けたよ」
 と隆輔が言った。
「猫ぉ?」
 アキラは電話口で眉をひそめた。
 珍しく彼のほうから電話をかけてきたと思ったら、奇妙な話だった。お師匠さんがペットを飼い始めたらしいが、それが隆輔をへこませたらしい。
「俺はやっぱり心のどこかで彼が俺を頼りにしてくれていることを期待していたんだ」
 英語の先生らしい長たらしい複文で言うと、彼は長い溜息をついた。アキラもなんだか肩の力が抜けた。
「なんでぃ、今さら」
「うむ。そうなんだ。今さらなんだ」
「もう俺の前で悩まないとか言ってたくせによ」
「だから、そうなんだ」
「何がだよ」
「俺がこうしてグズグズと愚痴を言える相手は貴様だけだってことさ」
「へッ」
 アキラは大きく毒づいた。
「ありがたくもねぇよ!」
「そう言わずに寄りかからせてくれよ」
「うるせぇ」
 口汚く答えながらアキラは笑っていた。今まさに隆輔の体重を受け留めつつあるかのように体を傾けていた。自分の部屋のベッドの上に胡坐をかいていた。
「いいぜ」
 と言いながら腕を広げ、倒れ込んだ。
「抱いてやるよ」
「ああ。抱いてくれ」
「へへ」
「ふっふ」
 隆輔の調子が戻ったようだった。アキラはちょっと目頭が熱くなった。すると彼が言った。
「今年の暮れは俺がそっちへ行っていいか?」
「ああ……いいけどさ」
「けど?」
「大掃除してやんねぇと。あんたの部屋」
「ああそうか」
「ああそうかじゃねぇよ。自分でやるって気は全然ねぇんだな」
「だって貴様の楽しみをなくしちまっちゃ悪いじゃないか」
「てやんでぇ。……じゃあ、あれだ」
「うん?」
「一度行ってやっから。また、あんたの学校の文化祭の頃に。うまいこと休みが取れたらな」
「そうか」
「うん」
「……一年経つな」
「ああ……経つね」
 二人の周囲で幻の銀杏が舞った。黄金色の。
「俺さ」
 アキラの口調が変わった。
「なんだ?」
 隆輔は彼が何を言い出しても穏やかに受け留める覚悟で答えた。
「あんたに謝りてぇんだ」
「……まだ何かあるのか」
「ああ。あるんだ」
「言ってみろ」
「うん。俺さ。あの日の夜、あいつが電話の向こうで」
「うむ」
「怒っただろ。あんたにだけ。自分は一人で我慢してるのにって」
「うむ……」
「俺、あれさ。ちょっとうらやましかったんだ。ああ、あんたには本音を言うんだなと思って」
「ふ」
 隆輔は眉をひそめながら失笑した。アキラのばか正直ぶりにだ。
「それで俺ぁ、俺なんかの相手になってくれるのは、やっぱりあんたしかいねぇんだなって思ったんだ」
 隆輔は深く息を吸った。俺が愚痴を言える相手は貴様しかいない。先刻、隆輔が言ったことへの応答だった。
 こいつはやっぱり、安全を確認してから道を渡ってくるような男だ。隆輔は目を閉じた。
 まぶたの裏に秀孝がいた。仔猫を撫でながら、長い睫毛の陰から黒い眼を真意の読み取れないほど深くして隆輔を見た。古代的微笑は出会いの日と同じに美しかった。今は夢、と彼は言った。
 美しい人。俺は確かに恋をした。
 ね、聖さん……と、懐かしい人への語りかけに擬した独り言に逃避しようとする心は、同時に電話の向こうの髭男の気配を探り、彼の表情を読み取ろうともしている。
 どちらが浮気したのか、されたのか。
 傷の舐め合いが嫌なら、いまこの電話を通じて永の別れを告げればいい。
 そしてまた悩むのだ。正しい選択だったのか、やり直す術はないのか、彼はまだ俺を覚えてくれているか?……
 隆輔は深い吐息をついた。静かに告げた。
「そうさ。貴様なんかの相手は俺くらいのもんさ」
「へッ」
「ふん」
 隆輔は鼻で笑った。いくらか眼に潤みを感じた。
「猫かい」
 とアキラが言った。
「ああ。猫だ」
「風間と」
「ああ。似合いさ」
「子どもの頃からの知り合いなんだろ」
「らしいな」
「話も合いそうだな」
「だろうな」
 語尾が震えた。
「……アキラ」
「おう」
「泣いてもいいか」
「いいよ」
「すまん」
「いいよ」
 隆輔もベッドの上にいた。枕に顔を伏せて、しばらく電話越しに、アキラの胸に甘える心地に浸った。

俺たちの秋(3)

 春日隆輔は、猫は好きでもないが、きらいでもない。あまり縁がなかったので判断基準がない。

 で、街角のビルの一室である稽古場の片隅に小さな獣の姿を見ても、驚きもしなかったが喜びもしなかった。なぜいるんだろうと不思議に思っただけだ。
 師匠は至って平静で、色目の地味な織りの着物姿で端座して、通常通りに稽古をつけてくれた。

 彼の大曲の再演が感銘深かったことはすでに伝えてあった。その夜のもう一人の男との会話の内容は、もちろん伝えていない。
 その男からは、それぞれの仕事場へ向かうために別れた朝に、無事に地元に着いた旨の連絡があったきりだ。
 また遠慮しているのだろう。
 隆輔の胸は晴れていなかった。口先ではえらそうなことを言ったが、やっぱり悩んでいた。生徒のために、部員のために、仕事に打ち込んでいる間は忘れているだけだ。
 気が抜けると、ぶり返す。やっぱり別れるべきではなかったか?

 卒倒するほど別れが恐ろしいからこそ。自分の心がまだ聖一を失った痛手から回復していないことを思い知ったからこそ。
 アキラにすがるべきではなかったのではなかったか?
 
 ……ってな悩みを秀孝に打ち明けるべきではないのも、もちろんである。

 だから隆輔は、師匠に輪をかけて平静を装った。これも修行のうちだ。剣士らしく。稽古はじゅうぶんにして来た。
 自室には剣道の型稽古をするための空間がある。居間で寛ぐための家具を一隅に寄せて配置してあって、床面をおおきく開けてある。そこに正座して、前の週までに秀孝から教わった部分をさらうのが隆輔の日課だ。やがて一年になる。
 なるのだ。よく続いた。鑑賞者の一人でしかなかった頃、再生音をとも連れに夜の散歩に出かけて、その再生機を水浸しにして、海中から秀孝を拾い上げた。
 いま思い出しても背筋の寒くなる夜。
 その翌日には弟子入りすることに決まって、それから一年。ほんとうになにごともなく、師匠と弟子との一線を守って、今夜も二人は相対している。
 腹式呼吸で長く息を出し、喉に力を入れずに詞を形作る。丸く。集中することは同じだが、武道とは気勢の操り方がちがう。
 差し向かいで謡った後は、並んで舞った。終了の礼を交わすと、師匠の膝に仔猫が乗った。
「ふふ」
 秀孝が仔猫に向かってうつむいたまま、その小さな背中を撫でながら上目遣いに隆輔を見て、柔らかく笑った。明るい眼差しだった。隆輔はなぜか胸を衝かれた。
 そのまま、秀孝から生き別れになっていた母親を風間俊雄とともに訪ねた話を聞かされた。隆輔は自分の顔色が変わったのが分かった。仔猫は秀孝の膝の上で寛いで、すっかり甘えて、気ままに寝返りを打っていた。
「それはようございました」
「ええ。ほんとうに」
 隆輔の口調は平静を保つことに成功した。美しい師匠は微笑して答えると、黒い眼の視線を隆輔の胸元に這わせた。
「あなたの」
 と低く言った。
「腕の中にいた夜が、いまは夢のようです」
 天鵞絨が耳を撫でるような秀孝の声が隆輔の胸の底に悲しく沁みた。仔猫が彼の襟に手をかけると懐にもぐり込んだ。


俺たちの秋(2)

 風間俊雄は宇藤秀孝の真意を量りかねた。状況は平凡なものだ。

 出張公演の帰り、秀孝が運転する彼の愛車の中。8気筒エンジンは静かに回転していた。

 往復する方向が同じだから、朝方に秀孝が俊雄を拾って、会場へ乗りつけ、帰路は俊雄を先に降ろして、秀孝が深山の屋敷へ帰る。三上はオートバイで単独行動。いつものことだ。

 その車中で秀孝が「母に会ってこようと思うんだ」と言った。俊雄は「ああ」と答えながら助手席から振り向いて、血のつながらない従弟を見た。いつ見ても非凡な横顔は父親に似て、骨格の端正さに性根の素直さをにじませている。

 と、俊雄には見える。

「いつ?」
 俊雄は直截に訊いた。運転中の従弟は前を見たまま微笑して答えた。
「まだ決めてないけど、連絡はしたんだ」
「そうか」
「仕事を休めないって言うから僕から出向くことにしたよ」
「仕事」
 俊雄は自分と幾つも違わない従弟の年齢に、その母親が出産した頃の年齢を足してみた。
 女子校を卒業したばかりの女弟子が師匠と通じたという醜聞だ。父親が認知し、正妻が自分の末子として養育を引き受けることで何事もなかったかのように収められた。

 若い母親のほうは行方知れず……というのではなく、あらためて学問を修めるという名目で遠方へやられた。
 学費の出資者は生まれた子どもの父親の親友。役者と後援者の前時代的な交流の名残だ。

 俊雄自身が誰から事情を聞かされたわけでもない。小耳にはさまって来るものを総合した結果だ。秀孝に向かって確かめてみたこともない。いままで、どちらからもその話題には触れずに来た。「今さら?」などと疑義や厭味を呈する趣味もない。
 で、母親の年齢は、かろうじて定年前だ。勤め人なら。

「着いてから連絡をくれれば診療所の裏を開けて入れてくれるって」
「そうか」
「それでね」
「うん」
「俊雄くんに一緒に来てほしいんだ」
 信号待ちで停車すると、彼はまともに俊雄を見た。
「お願い」
 そんな大きな眼で俺を見るな。まず訳を言えよと思いながら俊雄は「ああ」と答えていた。

 午前中に共演者との申し合わせと称するリハーサルを済ませてから遠出した。
 ほんとうに遠かった。新幹線に並行して走り、在来線に交差しながら山を越えた。秀孝が俊雄を必要とした第一義は運転の交替要員だったようだ。心の中で自分を哂う程度には、まだ俊雄にも期待がある。
 港に着くと車を預けて連絡船に乗った。まだこんな船があったのか。俊雄は自分自身を古い映画の中で観る思いがした。
「大丈夫?」
「……ああ」
 自分が船に強くないことも思い知った。音の波を作るのが商売だが、水の揺れは苦手だ。
 灯台のふもとの波止場でひと休みして、冷や汗が引くと、松籟に吹かれながら街路を歩いた。
 荒れた舗道と色あせた商店の看板は元号が違った頃の名残という他ない。民家の背後には防風を兼ねて松の大木が並んで梢を揺らしていた。
 松籟、松籟。
 俊雄の心に吹きなれた笛の一節が浮かんだ。自分自身が旅僧になったような気がした。

 やっと着いたところは、まだ海風が届く一角だった。シテは、どちらだろう。

 通り抜けてきた範囲では一軒しかない医療施設の裏手の小玄関を開けてくれたのは、秀孝によく似た小柄な婦人だった。白いものの混ざった髪も秀孝と同じように短く整えて、小さな顔は浅く日焼けして、白衣を着たままの身ごなしは軽快だった。
「タンポポとカモミール」
 自家栽培のハーブティーを淹れてくれると言った。どっちと訊かれたが客たちには選択基準がなかった。
「おまかせします」
「うふふ」
 小柄な人は子どものように笑った。秀孝の笑い方に似ていた。

 琥珀色のお茶は甘い香りがした。気分を落ち着ける効用があると俊雄が知ったのは後のことだ。
 秋の陽射しは穏やかだった。母なる人は、秀孝の舞台の成功を知っていた。次の公演に招待したいと息子に言われて断った。
「休めないの、ここ。お医者さん一人しかいないから。みんなうちへ来るの。お年よりも赤ちゃんも猫ちゃんも」
「猫もですか」
「うん。だからお掃除もたいへん」
 明るい眼の光はやっぱり秀孝に似ていた。
「先生」
 廊下から控えめに呼ぶ声がした。
「ほらね」
 秀孝に似た人が目配せした。診療所の看板に表示された通りなら、半休のはずだったが、それを機会に客たちは腰を上げた。
 すると細く開けた内扉から女医の足元をすり抜けて、灰色の仔猫が入って来た。秀孝は部屋の反対の角にある扉を開けて、裏玄関へ向かっていた。そのあとを追うように仔猫が走ると、秀孝より早く玄関に達して、白足袋をはいた前足の届く範囲で扉を掻きむしった。
「その子、こないだここで産まれたの。最後の一人なの。おねえちゃん達は町の人にもらわれて行ったの」
 彼女は自分より上背のある息子の眼をまっすぐに見上げてハッキリ言った。
「たかちゃんにあげる」
「は、はい」
 秀孝は少し驚いたようだが、口が先に返事していた。俊雄はこれには疑義を呈した。
「船で帰るんだぜ?」
「バスケットあるわ」
 バスケットは本当にバスケットで、古びた籐かごが仔猫の寝床になっていたらしい。女医が馴れた手つきで仔猫を納めると蓋を閉めてリボンを結んだ。最後の言葉は「じゃあね」だった。子どものように手を振ると、急患の診察に向かった。

 秀孝は帰りの乗り物の中で膝にバスケットを抱え続けていた。長旅だから途中で仔猫のためにいろいろと買い足した。俊雄は仔猫専用の菓子まで売っていることを知らなかった。
「あの人に」
 夜の闇に沈んだ帰路を運転しながら、俊雄は秀孝がポツリと言うのを聞いた。説明もなく「あの人」と呼ぶのは花菱のことだ。仔猫は菓子に満足してバスケットの中で眠っていた。
「間違いなのですかって、訊いたんだ」
「なにが」
「僕が生まれて来たことが」
 そういうことは俺に訊けよと思いながら俊雄は続きを促した。
「……そしたら?」
「そうではないって」
 当然だ、と腹の底で憤然としながら俊雄は声には出さずにいた。
「でも」
「ああ?」
「俺に恥をかかせるなって、おっしゃるんだ」
「……なにが、恥なんだ」
「僕が、あの人を」
 秀孝の言葉は続かなかった。俊雄は続きを促さなかった。
 生まれて来てよかったと思いたい。人と生まれて、人を愛し、それが相手に恥をかかせることになるというのなら、生まれて来たことが間違いになる。
 そんなはずはない、きみの愛は正しい。
 ……と言ってやれない自分を恥じるというには俊雄は正直すぎた。
 なぜ俺に言う? いまの俺は、きみのなんだ?
 ステアリングを握る両手に必要以上の力を籠め、商売道具ともいえる唇を噛みしめていることに気づいたのは、仔猫がバスケットの中で「にゃあ」と鳴いた時だ。

俺たちの秋(1)

 「俺は弟子として彼を支えることにした。貴様とはこれっきりだ」

 隆輔の冷たい声をはっきりとこの耳で聴いたと思ったところで目が覚めた。
 掛け布団は床に落ちていた。全身がいやな汗に濡れていた。だいぶ、うなされたらしい。アキラは上体を起こすと両手で顔を覆った。

 隆輔と離れて過ごす数週間は短くはない。むしろ長い。充分に長い。

 世の中、長距離通勤する人々も大勢いることを思えば、アキラだって彼の寝台を自分の寝床と定めて毎日オートバイをカッ飛ばして通ったっていいのだが、アキラは自分が隆輔の仕事の妨げになることを怖れている。
 デスクワークにいそしむ彼の前で、自分自身を邪魔者だと感じてしまうことを怖れている。

 そのくせ、彼からの別れ話には素直にうなずくことができなかった。彼は自分を罰するといった。アキラは「あんな奴に遠慮して自分も罰を受けることはいやだ」といった。

 が、いちばん悪かったのは自分だ。秀孝にしたことも悪かったが、心で隆輔を裏切っていたのはもっとよくない。ほんとうに自分を罰する必要があるのは俺だ。潔く身を引くべきだ。

 アキラは深い溜息をつきながら、膝の間に顔をうずめた。山間のログハウスだ。車も通らない。耳を圧するような夜のしじまの中で室内に籠もるのは闇ばかり。

 身を引くべきだと思ったのだ。あの朝。しかし隆輔が膝を崩してへたり込んでしまった。アキラはほんとうに驚いた。彼の中にあった、別れを怖れる心の大きさに。

 そんな奴が、秀孝のためなら孤独に耐えてみせようと言ったのだ。アキラは断った。断らなかったら、アキラが部屋を出るとき、隆輔は失神したろうか?

 アキラが断ったから、隆輔の中に安心感が生じて、それがまた裏切られたと思ったから、意識を遮断させたのじゃなかったか。そうだ。俺は隆輔を困らせてばかりいる。最低だ。
「うう」
 アキラは両腕を上げて頭を覆った。この世のどこかに身を隠せる場所があるものなら隠したい。
 秀孝の舞台の結末は怪蛇が川底に身を隠す様子を示していると隆輔が言っていた。ほんとうに身投げしたほうがいいのは俺だ。
 しかし隆輔がまた悩むだろう。そのくらいには優しい奴だ。ばか野郎。俺なんかのために……

 と、思ってしまう程度には、アキラもまだ自分が可愛い。ああ。

 アキラはゆっくりと首をもたげた。室内に籠もる闇を見上げた。やっぱり別れたほうがいい。そうだ。もう、二度と行くまい。この山中に埋もれてしまおう。彼の前途はまだまだ明るい。あの町で、秀孝とよりを戻して、人生そのものをやり直せばいい。

 それが俺が自分を罰し、彼らにつぐなうということだ。

 そう思うと隆輔の笑顔が暗中に閃く。隆輔と揃いの指輪をした左手を拳に握る。髭の下から嗚咽が漏れる。別れたくない。別れたくない。別れたくない。
 そんなふうに悩んでは、疲れ果てて再び寝入るということを、繰り返している。

俺たちの朝(2)

 「俺は幸せだ」と隆輔が繰り返した。

 アキラは自分の肩に顔を伏せた彼の首に腕をまわし、スーツを着た背中のまん中を赤ん坊をあやすようにさすり続けた。

 出勤前のひと時だ。長居はできない。しかしアキラは悪いことをしたと思っていた。確かにアキラはある感慨をもって廊下へ出る手前でふり返ったのだ。

 二度とここへは来ない。

 アキラは前の晩の自分の醜態を覚えていた。酒の酔いに浮かされて、やりたいことをやり、言いたいことを言ったのだったが、覚えていた。朝の光を浴びると、馴れた者どうしの呼吸で黙々と身支度と朝飯の仕度を整えながら、悪かったのはやっぱり俺だと思った。

 隆輔は悪くない。寂しい心どうしが引き寄せ合っただけだ。秀孝と。アキラが身を引く機会は何度もあった。隆輔は何度も修復を試みた。去年の夏の彼の涙に嘘はない。その彼を裏切ったのは俺だ。

 どんな言い訳をしても、アキラは秀孝を辱めることを愉しんだ。それが彼を追いつめた。深夜の海へ向かわせるほどに。彼は一見すると立ち直ったが、隆輔は悩み続けている。彼を捨て、アキラを選んだ自分を責め続けている。

 だから、この際はっきりとアキラが身を引くことを告げれば、彼らの間に新しい展開が訪れるかもしれない。

 隆輔は「貴様を取られるのはいやだった」と言った。だったら俺が取られなきゃいいんだ。俺がどっちにも未練を残さずにいなくなればいいんだ。いや、来なくなればいいんだ。そしたら、この長浜の町は彼らの町になる。

 俺はもともと旅人でしかなかった。一人旅の途中で隆輔の部屋に泊まり込む客でしかなかった。もう泊り込まないことにすればいい。ずっと前からそうすべきだった。

 いや、最初からとは言わない。出会ってからの数年間は楽しかった。とくに最初の三ヶ月は楽しかった。あの楽しさを長引かせようとしたのが間違いだ。もう一度味わおうとしたのが間違いだ。そうだ。間違いだった。俺は間違えた。

 隆輔と差し向かいで、彼の淹れてくれたコーヒーを味わいながら、彼がアキラの焼いてやったオムレツを食いながら時おり眼を上げて微笑するのへ笑顔を返しながら、そう思った。朝の光のなかで。

 だから、食器の後片付けも終えて、いつものように、当たり前に、手荷物を提げて部屋を出ようとして、振り返った。

 隆輔が選んでくれた部屋だった。海が見える部屋。アキラが自分でも忘れていた希望を彼が覚えていてくれた。そこに交際を開始して以来いちばん複雑な思い出が詰まってしまった。アキラは感慨をもって見渡した。そして隆輔の褐色の眼を見たとき、彼の顔色が変わった。

 アキラはあわてた。立っている人間が失神する姿を初めて見た。よりによって隆輔だ。まがりなりにも武道家だ。
「先生ッ」
呼んでいた。肘を取ると彼の眼がアキラを見た。と思ったら彼の体がストンと沈んだ。なんてこった。

 アキラはまず彼の体調不良を疑った。自分の父親の発病に気づかずにいたことが脳裏をよぎると、ゾッとした。救急車を呼んで、隆輔を入院させて、自分は今日の仕事を休んで、いや、休めないから退社のタイムカードを押したらこっちへトンボ帰りして……一瞬のうちに思い描いた。が、隆輔は顔を挙げた。冷や汗に濡れていた。しかし意識はあった。
「調子悪いのかい?」
「いや」
 声も出た。返事もできた。ただ、続きを言いよどんだ。隆輔がアキラに対して言い出しにくそうにすることは秀孝のことだ。アキラは咄嗟にそう思った。それだけアキラ自身の心に負い目があった。すると思いがけず隆輔が「幸せだ」と言った。

 俺は、どうしたらいいのか。

 アキラは初めて腹の底から迷った。今までも迷っていたが、こんなに深く迷ったのは初めてだった。迷ったからこそ隆輔を抱き締めた。彼を落ち着かせてやりたかった。ほんとうに体調不良ではない以上、仕事に行かせなければならない。自分もだ。

 隆輔はアキラの腕の中で「俺は幸せだ」と繰り返した。アキラはそれが文字通りの喜びの表出ではないことくらいは分かったが「だったら別れようぜ」とも言えねェなと思った。

 すると隆輔が、ふと顔を挙げた。「こうしちゃおれん」と、しゃがれ声で言った。「ああ」とアキラは腕をほどきながら返事をした。
「顔洗いなよ」
「うむ」
 廊下へ出るドアを開けて彼を先に通してやると、彼の歩調は常態に復したようだった。

 紺色のスーツジャケットを着た背を丸めて、彼が顔を冷水で洗うのを眺め、アキラはタオルを差し出した。彼は小ざっぱりした顔で微笑した。
「驚かせたな」
「もう大丈夫かい?」
「うむ」
 それっきり、なにも言わずに外へ出た。隆輔の重みを後席に親しく感じながら、アキラは愛車を走らせた。民家の間を流れる朝の空気は、早やほんのりと金木犀の香りがした。

 隆輔の勤め先はアキラには縁遠い私立の名門校だ。正門の見える辺りで隆輔を降ろすと、彼は慣れた手つきでヘルメットを収納した。顔を上げると、つぶれた髪に指を入れて整えながら「運転中は」と言った。
「うん?」
「貴様の気を散らさんように黙っていたんだが」
 いつものことだ。たんに寡黙な男だったのではなく、両親が車の事故でなくなったせいでもあったらしいことをアキラが知って、まだ一年経たない。アキラは愛車のスイッチを切って、頼もしい駆動音の響きをいったん黙らせた。
「なんだい?」
「七年経ったな」
「うッ」
 アキラは息を詰まらせた。重い過去を明かしてくれるようになって、まだ一年経たないが、出会いの年から数えて丸七年が経過したことを隆輔は覚えていてくれた。出会いの頃の空気を満たしていた花の香りがアキラの胸に運んだのと同じ感慨を隆輔の胸にも運んだのか。
 彼は微笑していた。アキラには不安があった。彼の次の言葉が読めなかった。自分の言うべき言葉も分からなかった。

 いい潮時だから別れようぜ? 軽い感じで「またな」? 深刻な感じで「俺がいなくても大丈夫かい?」

 隆輔がアキラの肩を片手で抱いた。小首を傾げてアキラの顔をのぞき込むと「俺はな」と言った。
「う、うん?」
「いつも、貴様がいつ来なくなってもいいように、素っ気なく振舞うことにしていた。でも、それは二度と大事なものをなくした思いをしたくないから、自分を守っていただけだった。貴様に寂しい思いをさせていたなら、すまん」
 アキラは口を開けて恋人を見つめた。
「今な。後ろで考えていたんだ」
 隆輔は微笑しながら顎をしゃくって後席を示した。声は低く囁くようだった。周囲を将来ある生徒たちが自転車で、徒歩で、まっすぐに学び舎へ向かっていた。
「そうかい。いや……」
 アキラも同じような声を喉から押し出した。
「もういいよ。そんなこたぁ」
「そう言ってくれるか」
「うん」
「そうか。ありがとう」
 隆輔が片頬に深い笑み皺を刻んだ。明るい眼差しで続けた。
「じゃあ、これからもよろしく頼む」
 アキラの顔色が変わった。隆輔が気づいた。
「……どうした?」
 彼は穏やかに問うた。朝日は高く昇り始めて、大気が夏の名残の熱を帯び始めていたが、アキラは身のうちから震えが湧くのを感じた。
「……いいのかい」
 声も震えた。
「ああ」
 隆輔が真顔になって深く頷いた。アキラを選んだ自分を責めていた彼が何かを決意したらしかった。アキラは胸が一杯になった。なにごとにまれ彼の決意を応援してやりたい気持ちと、自分はそれに相応しくないという気持ちがせめぎ合った。
 アキラは途方に暮れた。じつに情けなかった。隆輔がまた微笑した。
「言いたいことがあるなら言っちまえ」
 アキラは叱られた子どもが泣く寸前のような気分になった。気分だけじゃなく、おとなぶった髭面が実際にそういう顔になった。
「だって俺ァ……」
「うむ?」
「ほんとにあいつに悪いことしたんだぜ。あんたにもちゃんと謝ってねェ」
 隆輔がまた真顔になって頷いた。
「貴様もそう思えるようになったってことだ」
「……そうかな」
「うむ。貴様にも余裕ができたんだ。きのう言いたいことをぜんぶ言うことができたんだ。俺は自分のだめなところをぜんぶ貴様に見せた。だから、ここからやり直そう。やり直すために別れるか仕切り直すかしかないなら、俺はもう二度と貴様の前でこれ見よがしに悩んだ顔をしないことを選ぶ」

 彼の声は穏やかだったが口調は確かだった。アキラは自分の心が竹刀で打たれたように感じた。

 それはアキラが二度と秀孝を恨まないということでもある。隆輔の心を惹きつけて離さない彼をうらやみ、嫉妬して、泣き叫んだりしないということでもある。それは激しい恋の季節の終わりでもある。自滅的な、自傷的な、暗い陶酔の終わりでもある。
「……分かった」
 アキラは低く答え、深く頷いた。それは、あるいは交際自体の終わりに向かうコーダのようなものかもしれない。ゆっくりとテンポを落として、音量を落としていく。冬を準備する秋のようなものなのかもしれない。それを味わいたくないなら、いま別れを告げればいい。しかし。
 別れの予感に卒倒する奴を置き去りにはできない。アキラは自分の肩に手を置く男の眼を改めて見た。透徹した決意の装いの陰に怯えと慙愧を秘めた褐色の両眼。アキラはまだ七年前の出会いの日に最初に彼と視線を合わせた時を覚えていた。アキラはできるだけ明るさを取り戻したふりをした。髭面を歪ませて、ニッと笑った。
「じゃあ、また来るぜ」
 いつもの別れの挨拶だった。
「ああ。また来い」
 隆輔がアキラの肩から手を離して一歩さがった。
「じゃあな」
「気をつけろ」
「おう」
 アキラは再びエンジンを始動させた。

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