宇藤花菱会

Japanese M/M Romance for 18 and over.

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成人向けM/M恋愛小説。
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俺たちの朝。

目覚めると、アキラが「おはよう」と言いながら、寝床の中で両手を突き上げて大きく伸びをした。「うーーん」と唸ると、腹筋の力でむくりと上体を起こした。

いつものことだ。一度だけ彼のログハウスに泊まった時もそうだった。彼の毎日は、そうやって始まるのだろう。

隆輔もいつもと同じように起き直ると、身支度をした。台所へ移動すると、アキラが朝食を用意する横でコーヒーを淹れた。差し向かいで着席すると、食って、飲んだ。その片付けも済ませると、一人は黒革のライダースジャケットを着て、一人は紺色のスーツジャケットを着て、それぞれに手荷物を提げて、リビングを横切った。それぞれの職場へ向かうためだ。廊下へ出る扉の手前で、ふと、アキラが振り返った。

リビングを一望し、キッチンを眺めて、隆輔の顔を見た。隆輔を強い既視感が襲った。

隆輔が学生時代に借りていた狭い部屋を、石上聖一が出ていこうとして、振り返った。畳張りの木造アパート。染みの浮いた壁、色あせた襖の唐紙。めずらしくも美しくもない室内を見渡し、隆輔の顔を見て、にこりと笑った。近眼の彼の眼は黒く潤んで明るい光を湛えていた。それが最後だった。隆輔が彼を見た最後だった。

「先生ッ」

気がつくと、アキラに肘を取られていた。膝の力がカクンと抜けた。

隆輔は、畳ではなく樹脂塗装されたフローリングにくずおれた。アキラが膝をついて隆輔の顔をのぞきこんだ。
「どうしたい」
隆輔は喘いだ。アキラの肩をつかんだ。彼の首のつけ根に顔を伏せた。全身が冷や汗に濡れていた。小刻みに震えた。アキラが隆輔の肩に両腕をまわした。

彼の温もりと、息遣いと、鼓動の音が、隆輔に体温と正気を取り戻させた。顔を上げると、髭男は心配そうに眉をひそめていた。
「大丈夫かい?」
「……ああ」
隆輔は笑おうとしたが、うまく行かなかった。アキラの手が頬に触れた。彼の額が隆輔の額に触れた。
「調子悪いのかい?」
「いや」
隆輔は首を振った。
「体は悪くない。ただ……」
「なんだい?」
聖一の名を言おうとした舌を何かが押しとどめた。脳裏のどこかで鱗紋の摺箔がきらめいた。

自分が彼の部屋を出たあの朝、残された秀孝の思いはどのようなものだったろうか。

アキラの掌が隆輔の髪を撫でた。子どもをあやすようだ。彼は何も言わなかった。その黒い眼の湛えた寂しそうな光が隆輔の胸を詰まらせた。半開きにした唇がひどく震えた。俺は何を言おうとしているのか。
「なんか、思い出しちまったんだね」
アキラが言った。なにかが伝わったように。
「ああ……」
隆輔は溺れる者のように彼の声にすがった。
「そうだ」
後が続かなかった。アキラの掌が背中をさすってくれた。
「俺は」
隆輔は言葉を思い出した。
「幸せだ。貴様がいてくれるおかげで」
アキラの眼が一瞬明るく光った。頬に赤みが射した。隆輔は言ってよかったと思った。脳裏のどこかで般若の面が泣いた。

しかし、その後ろにいた人物は、いま隆輔の師匠だ。幻の存在ではなく、幽霊でも妖怪でもない。隆輔は次の稽古日に彼に会って、アキラとの間にこんなことがありましたと告げることはできない。その必要もない。これはただ、アキラと隆輔の間の出来事であり、二人だけの秘密だ。

「聖一が」
隆輔は言った。アキラが顔色を変えて息を呑んだ。
「振り返ったんだ、今の貴様みたいに。最後に会ったとき。俺はいままで忘れていた」
隆輔は、ふと目を閉じた。まぶたの裏に聖一の笑顔が見えた。
「思い出させてくれた。貴様が」
隆輔はアキラの肩をつかんで、腰を上げた。まだ少し膝が震えた。
「ありがとう」
立ち上がると、何に対してともなく言った。笑ったつもりだったが、アキラは小首を傾げて気遣わしげに隆輔の顔を見た。
「ごめんな」
「ん?」
「俺、今日は休めねェんだ」
「うむ? 俺だってそうだ」
「だって、大丈夫かい?」
「ああ。大丈夫だ」
急にアキラが思いつめたような顔をすると、隆輔に体重を預けるように上体を傾け、隆輔を力いっぱい両腕で抱き締めた。隆輔は彼の体重を受け留めて、彼を抱き返した。

そのまま、しばらく抱き合っていた。

更新しました。

ご無沙汰しております。今年の桜を見ながら、その後の人々の様子を書き足しました。本館(サイト)に挙げてございます。劇中は秋です。『月下の手向』から続いております。ご清覧を賜れば幸いです。

『鐘下記』 全3話。別サイトへ飛びます。同窓で開く設定にしてございます。ご注意ください。

月下の手向(5)

 隆輔は深く項垂れていた。もう言えることがなかった。聖一と二人だけの暮らしに戻るといったが、その資格もないように思えた。
 ふと気配を感じて顔を上げると、アキラが手を伸ばしていた。彼はいつの間にか膝を進めて、隆輔との間を詰めていた。隆輔は反射的にその手を、よけなかった。

 アキラの大きな手は、子どもをあやすように隆輔の頭頂部を撫でた。
「勝ったほうが後味が悪いってこたァ、あるよ」
 彼の口調は穏やかだった。
「俺もそうだった。すぐにやり過ぎたと思った。でも、あいつ自身があんたに知られたくないだろうと思ったから、あんたには言わずにいた。でも俺ァ、結局自分からあんたにみっともないところを見せちまった。そんで、あんたに許してもらった」
「……うむ」
「だから、俺があんたに愛想を尽かすことはないよ。あんたが何度でもあいつのことを思い出しちまうってなら、あんたもそれだけ悪いことをしたと思ってるってことだし、それはあんたがまた同じ失敗をしないように気をつけてるってことだろ」
「……そうだろうか」
「うん。反省するってそういうことだろ」
「反省」
「うん。あんたは反省してるんだ。あいつに可哀想なことをした。俺にも悪いことをした。石上さんにも顔向けできねェことをした。去年からずーーっと、何回も同じことを考えてきたんだろ」
「うむ……」
「修行っていうなら、それだって修行のうちさ。あんたはそうしたきゃ、ずーーっとそうしてたっていいんだ。俺は、確か、あんたにもうあいつのことは考えないでくれって言ったこたァねェと思うぜ。あいつをあんまり甘やかすなとは言ったけどね」
 隆輔は記憶のページを指先で弾くように捲った。
「……うむ。ないな」
「うん。たぶんな」
「そうすると、どうなるんだ」
 アキラの手が隆輔の頬へ移動した。
「あんたァ気が済むまで反省してりゃいいさ。あいつと同じ気持ちになったつもりで、昔の人のことだけ考えて、修行に励めばいいさ」
「いいのか」
 隆輔の胸は痛んだ。自分から言い出したことが、ついに受け入れられたようでありながら。しかし、続きがあった。
「その代わり」
「む?」
「俺にお願いさせてくれよ」
「お願い?」
「うん。俺をあんたのそばにおいてほしいんだ」
 隆輔は呆気に取られた。
「……なんだと?」
「あらためてお願いするよ。俺にあんたの世話をさせてくれ。毎日は来れねェけど、飯のしたくをさせてくれ。夜の相手もさせてくれ。あいつにゃあ悪いかもしれねェが、俺も主人を二人持つ気はねェんだ」
 隆輔は返す言葉を見つけられなかった。
「なんなら、あんたの命令で、あっちに貸し出してもらってもいいけどな。でも、あっちのほうで受け取ってくれねェと思うぜ」
「そんな」
 隆輔は首を横に振った。
「そんなことを、言ってるんじゃ、ないんだ」
「じゃあ、なんだい? やっぱりあっちと縒りを戻したいのかい?」
「そうじゃないッ」
 隆輔はアキラの手を頬から振り払うように首を横に振った。すると彼の手が隆輔の顎を捉えた。彼は低く言った。
「俺はお願いしてるんだよ」
「うッ」
「あいつが九年も十年も前に死んだ人に義理を立ててるのが可哀想だってなら、俺だってこの六年間あんたのことを考えなかった日はないんだよ」
「……」
「あんたがあいつに遠慮する気持ちに俺が遠慮して身を引くのが本当かもしれねェ。あんたの気持ちを分かってやるのが本当にカッコいい奴なのかもしれねェ。でも、俺ァそこを無理にお願いしてるんだ。俺の我がままを聞いてくれ」
「貴様」
 隆輔は顔色を変えた。
「自分が責任をかぶろうとするな」
「かぶってねェよ。あんたがうんと言ってくれりゃ俺たちは共犯だ」
 隆輔はふたたび絶句した。
「俺に……」
 アキラに顎を捉えられたまま、彼の黒い眼を見返しながら、喘ぐようにこぼした。
「覚悟が足りないってことか」
「俺と一緒に泥をかぶるのはいやかい」
「泥をかぶって、旨いものを食うなんてことがあっていいのか」
「旨いものを食うってそういうことだろ。自分が食っちまえば、最低でもそのぶんは人にはやれねェんだ」
 隆輔は脱力を感じた。
「そうまでして、食ったものは、旨いと思うか」
「そりゃ分からねェ。食ってみねェと」
 まだアキラの手に顎を押さえられたまま、隆輔の眉に「無責任な」という思いが出た。「そうさ」とアキラが見透かしたように言った。
「自分は卑怯だって気持ちと一緒に飲み込むものは、苦いかもしれねェ。味がしねェかもしれねェ。それでも栄養にァなるだろうよ。でも来年になったら見るのもいやになるかもしれねェな。いまのあんたの気持ちはどうだい。俺と一緒に食ってくれるかい」
「まるで脅しだ」
「脅してるんだよ。俺だって崖っぷちだぜ」
「崖」
「うん」
 隆輔の視界で、アキラの怒りをはらんだような顔と、自分の足が彼を崖っぷちから蹴落とす幻影が重なった。隆輔は身震いした。
「分かった」
 短く答えた。
「そんなことはできない」
 脳裏のどこかで、秀孝が横目使いをしながら冷笑したようだった。
 眼前のアキラは、目に見えて安堵したようだった。厚い肩が脱力した。あからさまに太息を吐いた。濃い眉が「八」の字を描き、その下の目がせわしなく瞬いた。
「貴様も分かりやすい男だな」
「あんたほどじゃねェよ」
 彼はクスンと鼻を鳴らし、拳で鼻下をこすると、前のめりになって、顔をしかめた。
「しびれた」
「無理に立つな。捻挫する」
「知ってるよ」
 ふたたび肩を怒らせて痺れに耐えながら負け惜しみをいう元柔道部員を下目使いに見おろしながら、隆輔は聖一の形見を手に立ち上がった。
「しまってくる」
「おう」

 獣のように唸り声を挙げる髭男を背後に残して、隆輔は寝室に入った。クローゼットの扉を開け、その前に座り込むと、刀剣保管庫の金属扉を開け、白木の内扉を開けた。聖一の形見の柄を叩いて目釘を外し、朴の木の白鞘に刀身を収め、拵えを磨いた。

 聖さん。

 胸中で語りかけた。アキラに一本取られちゃったよ。ぼくの見たとこ3本くらいだね、と聖一が微笑して答えた。彼は隆輔の胸中にいるようでもあり、生者のように傍らに座っているようでもあった。
 あいつと俺を会わせてくれたのは、あんたかい?
 どうかな。
 そうだね。だったら秀孝と俺を会わせたのもあんたってことになってしまう。
 そうかもしれないね。でも、ぼくにはそれほどの力はないよ。
 うん。そうなんだ。
 隆輔は石上の家紋を象った鍔を磨き続けた。
 本当はあんたの知らないところで俺自身が新しい人々に出会って、自分がいちばん正しいと思う道を自分で選ぶことだったんだ。俺はあんたを言い訳にしてしまった。
 そうだね。
 ごめんね。
 いいんだよ。
 隆輔は目をしばたたいた。
 アキラはあんたの刀を見て、礼を言ってくれたよ。
 うん。ぼくも嬉しかった。
 いい奴だよね。
 ああ。いい人だ。
 隆輔は手を止めて石上の家紋に見入った。誰かの紋服の胸にある下がり藤の家紋が重なった。
 俺は秀孝が自分を頼ってくれたことが嬉しかったんだ。
 そうだね。
 そのことに自分が頼ってしまった。
 そうだね。
 アキラを斬り捨てて、俺の心の中にだけある板ばさみのつらさから逃げようとした。
 そうだね。
 もし、彼がああ言ってくれなくて、秀孝が本当に新しい相手を見つけていたら、俺はみじめだったろうね。
 そうだろうね。
 秀孝はやっぱり魅力的なんだ。出会い方が違えばよかったというのは嘘じゃない。
 そうだね。
 隆輔は顔を挙げた。そこに聖一がいるかのように空間を見つめた。
 彼が訊いたことがあるんだ。
 なんだい?
 あんたは本当は俺に忘れてほしくなかったんじゃないのかって。
 幻影は答えなかった。困ったような顔をしていた。
 どうなの?
 幻影は項垂れた。羞恥が頬に浮かんだ。
 ……うん。本当は、ずっと覚えていてほしかった。
 俺があんたを忘れるはずないって分かってて、わざと言ったんだね?
 うん。カッコつけたかったんだ。
 そうか。やっぱり。
 隆輔は晴れやかに笑った。幻影がはにかんだように微笑した。じゃあ俺は、と隆輔は胸中で続けた。
 あんたを忘れようとしなくていいんだ。
 うん。本当はそうなんだ。ごめんね。つらい思いさせたね。
 いいよ。
 隆輔は深呼吸した。手にしていた刀剣の細部を保管庫の小抽斗に丁寧に並べた。内扉を閉めた。金属扉を閉めた。立ち上がると、クローゼットの扉を閉めた。そこが聖一の胸でもあるかのように額を寄せて目を閉じた。
 あんたとこんなに長い時間話せたのは初めてだ。
 そうだね。
 アキラのお陰だ。
 そうだね。
 彼のところへ行くよ。
 ああ。そうしなさい。

  隆輔はクローゼットの前から離れ、リビングへ通じる扉を開けた。

 アキラが隆輔に背中を向けて、食卓についていた。とうに料理を並べ終わって、先に食い始めていたわけでもなく、キッチンの出入り口から近いほうの椅子に座って、頬杖をついて、身動きせずにいた。
 上座にあたる席を隆輔のために空けて、隆輔が聖一と二人だけで過ごす時間に遠慮して、黙って待っていてくれた。
 隆輔の胸に、熱い情緒が広がった。アキラの名前は朝日を意味する。
 暗い背景に浮かぶ月のように女面の大写しにされたポスターを場違いだと見た日から始まった隆輔の迷い道は、見失いかけた自分自身の居場所をふたたび見出す日に通じていたようだ。
「アキラ」
 隆輔は声をかけた。アキラが弾かれたように振り返った。
「おう、先生」
 彼の髭面が明るい笑いに崩れた。彼の名前は朝日を意味する。
「待たせたな」
 隆輔はアキラに向かって踏み出した。

 

-月下の手向 了-



月下の手向(4)

 アキラは静かに溜息をついた。石上さんよ、とふたたび腹の中で語りかけた。

 あんたの弟は不器用だなァ。

 うん、とアキラの世界のどこかで石上聖一がはにかんだように微笑んだ。ぼくはそこが好きだったんだ。俺もきらいじゃねェよ、とアキラは答えた。それから「先生よ」と口に出して呼びかけた。隆輔が顔を上げた。急に憔悴したようだった。
「だったらさ」
 アキラは静かに彼へ言った。
「どうしてもう俺に愛想が尽きたって言わねェんだい?」
 隆輔が目を見張った。アキラは秀孝の実家でもある能舞台のある方角へ顎をしゃくり、石上の形見を目線で示した。
「今日あっちの先生が立派なお舞台を見せてくれたから、自分も心を入れかえて剣の道にはげむことにしたから、お前なんか修行の邪魔だからもう来るなって言やァいいじゃねェか」
 隆輔が口を「へ」の字に歪めた。
「それとも、お前なんかただの家政夫だって言ってくれてもいいんだぜ。そしたら俺が腹を立てて、こっちから願い下げだって言って、すぐに出て行くかもしれねェぜ?」
 隆輔の膝に置いた拳が震えた。彼は搾り出すようにしゃがれ声でつぶやいた。
「……嘘は、つけない」
 アキラの胸にじんわりと温かいものが広がった。自分でも思いがけないほど口調が穏やかになった。
「そうかい。あんたらしいや。でもさ。本当のことを全部ぶっちゃければ、俺が納得するとは限らねェわけだろ」
「でも、俺は、試合で全力を尽くさないのは相手に失礼だと教わったんだ」

 いや試合じゃねェしと思ったのは、アキラは口に出さなかった。嘘も方便で駆け引きするのも全力を尽くす内だろと思ったのも口に出さなかった。
 おととしの暮れには下手な駆け引きをして俺をごまかそうとしたくせにと古い恨みを蒸し返すのもやめた。
 学校の生徒相手だったらもう少し器用に話をする方法も知っているだろうに、あんたは心のどっかで俺を石上さんと間違えてやがるんだと思ったのも口に出さなかった。
 そんなことで石上さんが喜ぶのかいと訊くのもやめた。誰かみたいに彼の遺言をだしに使って自分を売り込むようなことはしたくなかった。だから自分の気持ちだけ言うことにした。

「だったら俺も本当のことを言うよ」 
 アキラの声は静かだったが、隆輔の喉仏はゴクリと動いた。
「俺が、あんたと自分とこの世に二人だけのような気がして、最高に幸せだったのは、最初に会った日の夜と、初めてあんたの部屋に上がらせてもらった時の、その2回だけさ」
「……ッ」
 隆輔の全身に震えが走った。アキラは頷いた。
「あんたは昔の話をしてくれねェ奴なんだなって、すぐに気がついたんだ。子どもの頃の話とか、学生ん時の話とか。でも、いろいろあったに決まってるから、俺も黙ってることにした。いろいろあったんなら、尚さら今が楽しいほうがいいもんな」
 隆輔が鋭く息を吸った。
「でも俺ァ、そのうちに、あんたの仕事の邪魔になってるんじゃねェかって、そっちのほうが気になるようになった。だから、だんだん連絡を入れるのが遠くなった。あんたからもあんまり言って来なかった。それでも時々、がまんできなくなったんだよ。だから」
 アキラは思い出しながら、しんみりした気分になった。だんだん項垂れた。
「だから、天気がいいからとか、季節が変わって花が咲いたからとか、言い訳を考えて、みやげになるような旨そうなものを売ってるとこを探したりして、そうやってバイク転がして来るたびに、ビクビクもんだったよ。今度こそ終わりにしてくれって言われるんじゃねェかなって」
 隆輔が小さく首を横に振ったようだった。
「そんでさ。あんたが3年生の担任になってさ。部活のほうも連勝中とかでさ。土日も補講とか試合とかで全然休みねェし。俺ァもう本当にやめようと思ったんだ。でも、1年くらい過ぎてみたら、あんたのことを考えない日はなかったなって思ったんだ。だから、せめて暮れの休みの間だけでも一緒にいさせてもらいてェなと思って、そんで電話したんだ」
 アキラは顔を上げた。隆輔の眼が潤んでいた。
「あんたァあん時ァまだあいつに手が届かねェと思っていた。だから俺で手を打ったってことだよな」
 隆輔が眼を潤ませたまま顔色を変えた。
「そういう言い方をするな。俺は本当に」
「本当に、俺を待っててくれたのに、今ならあいつに手が届くから、俺を捨てるって話だろ?」
 アキラはいくらか意地悪を言った。正念場だった。口調は静かだったが、隆輔は怒鳴りつけられたかのように身を震わせた。
「ちが……ッ」
「じゃなんだい」
「俺は、一人になって」
「修行のやり直しかい。自分の面倒も見られねェくせに」
 隆輔は一瞬言葉に詰まると、プイッと横を向いた。
「俺だって、やればできるんだ」
 すねたらしかった。
「自分の気持ちの面倒ってことだよ」
 アキラが言ってやると、振り向いた。なにか言い返しかけて、ふと脱力した。
「どうしたい」
「彼には、こんなふうに喧嘩できる相手もいないんだ」
 アキラは切り札を切ることにした。
「そりゃ分かんねェよ」
「なに?」
「考えろよ。あんたと俺だって、盆暮れと、あとは何ヶ月かにいっぺんしか会ってねェじゃねェか。あいつだって、そのくらいの相手なら、もう見つけてあるかもしれねェぜ? 奴はそれをあんたにいちいち報告する義理があるのかい? 日誌でもつけさせてるのかい、監督さんよ」
「いや……」
 隆輔は完全に虚を突かれたという顔をした。
「でも、彼は一人で身を慎んでいるはずなんだ」
「あんたと約束したのかい」
「いや……」
 隆輔の眼に逡巡が影をさした。
「約束は、していない」
「じゃあ分かんないよな」
 隆輔は項垂れ気味になって眉をひそめた。そして思いついたように顔を上げた。
「いや、そうじゃない。そうじゃないぞ」
「なにが」
「彼が新しい相手を見つければいいって話じゃない。俺は自分を許せないから」
「俺を捨てる自分は許せるのかよ」
「う……ッ」
 隆輔は形のいい眉毛を「八」の字にして、その下から途方に暮れたような眼でアキラを見た。
「どうして、愛想を尽かしてくれないんだ」
「あんたと同じさ」
 彼はひどく困ったようだった。あまり見たことのない顔だな、とアキラは思った。彼はゆっくりと項垂れた。石上の形見を見た。
「俺は」
 とつぶやいた。
「こうして貴様と会っているのに、彼のことばかり考えている」
 うんうんとアキラは頷いた。
「彼には師匠らしさを求めておきながら、自分だけ貴様の手料理を食って、今日も貴様と一緒に寝床へ入ろうとしている」
 うんうんうんとアキラは頷いた。
「俺は」
 隆輔が顔を上げた
「貴様を彼に盗られたくなかったんだ」
「うん?」
「彼を海から拾ってきた夜が明けたとき、俺は貴様が彼になにをしたのかに気づいた。自分の身内が悪いことをしたと思って、自分を責めた。でも同じくらい彼に嫉妬した」
 アキラはいくらか決まりが悪くなって鬚の上から頬を掻いた。
「俺はあの時、秀孝は俺のものなのに貴様がけがしたと思ったんじゃない。貴様のその鬚面を思い出しながら、あいつは俺のものだと思ったんだ」
「そ、そうかい」
「だから彼自身のために彼をほうっておけないという気持ちと、すぐに貴様に会いに行きたい気持ちの板ばさみになった」
「そうかい」
「だから彼に、師匠らしくしろと口でハッキリ言ってやったわけじゃないが、そういう形をつけておいてから、実際に貴様んとこへ行った。わざと声も出したし、体も使った」
「ああ……そうだったね」
 隆輔の目元が紅潮した。そのくせ彼はアキラから眼を逸らした。
「そして俺は今日、自分の判断が間違いではなかったことを確認した。なにもかもうまく行ったんだ。彼は正道に立ち返り、俺は望みのものを手に入れた。なのに」
「なんか悪いことしたような気がするわけだね」
「うん」
 隆輔が子どものように頷いた。



月下の手向(3)

「座ってくれ」
「おう」
 柔道の稽古なら受けたことのあるアキラは、隆輔から距離を置いて、フローリングに正座すると、拳を膝に置いた。隆輔は膝元に横たえていた刀剣をつかんだ。
「まず、これを見てくれ」
「お、おう」
 アキラは思わず背筋を伸ばした。むずかしい作法があるのかと思ったが、隆輔は正座したまま、下げ緒を巻いていない黒塗りの鞘から、スラリと抜き放った。
 蛍光灯の下、長い刀身を濡れたような輝きが走った。アキラは心臓を冷たい手でわしづかみにされたように思った。
 アキラの仕事は金属研磨だ。機械部品を磨き上げる。それが音もなく、滑らかに廻転するように、ノギス片手に。勤続二十二年。
 その経験が、微妙な曲線を描く玉鋼の鍛造と研磨の技の高さを体に教えた。全身が細かく震えた。心臓は冷たい手に触れられて止まったと思った次の瞬間には激しく打ち始めた。風呂上りの清潔な腋に新たな汗がにじんだ。拳は固く閉じたまま、身動き一つならなかった。
 隆輔が軽く手首をひねると、刀身に波打つような刃紋が浮き上がった。鍔元から刃先にかけて、刀身が脈を打ったかのようだった。一瞬のことだった。が、アキラは命の宿りを見たと思った。
 と、隆輔が大きく刃を返した。本人の眼前に垂直に立てるように構えた。彼の膝元には小箱があった。彼はその中から布きれと小瓶を取り出した。片手で小瓶の蓋を開け、その中味を布に少量落とすと、鍔元で刀身を包み、そのまま刃先に向けて、ひと拭きした。それから、鞘に収めた。パチンと音がした。アキラを見た。
 えらく、あっけなかった。アキラは理解した。
 これが隆輔の日常だった。気負うほどの理由づけも作法もなく、時おり刀身に油を塗る。アキラにとってのオートバイと同じだ。
 彼はこうしてアキラと出会う前の日々を生きて来た。これからも生きていく。アキラの脳裏に、昨夏に初めて見た石上聖一の遺影が浮かび、眼前の隆輔の顔と重なった。

 血のつながらない義兄弟。その深い契りの前に、アキラ自身は何者でもない。

 しかし、そのことは今日のアキラをかつてのような卑屈な気分にはさせなかった。アキラは深呼吸した。呼気でさえ金属を錆びさせる。それを知っている体は、反射的に息を詰めていた。
「ありがとう」
 隆輔には日常かもしれないが、アキラには急に遠いところへ連れて行かれて、帰ってきたように感じられた。生まれ変わって、新たな呼吸を始めた、その第一声は、我ながら素直な感謝の言葉だった。
「うむ」
 隆輔は浅く笑った。しかしその目元にはまだ緊張があった。アキラは「じゃあ飯にするか」とは行かないようだと覚悟した。石上さんよ、と胸の中で語りかけた。

 あんたの弟は、この期に及んで何を言おうとしてるんだい?

「聞いてくれ」
 隆輔が静かに言った。
「おう」
 アキラは穏やかに答えた。
「貴様にとって気分のいい話ではないと思う」
「だろうね。気分のいい話だったら食いながらでも出来るもんな」
 隆輔の喉がゴクリと動いた。前置きしておいて、褐色の眼を逡巡に揺らがせた。アキラは彼なりの間合いを待ち受けた。すると彼が深呼吸した。裸の胸ではなく、締まりのいい腹がふくらんだ。腹式呼吸で気を整えて、なにを抜かそうというのか。
「俺は」
「おう」
「そのな」
「おう」
「さっき、月を見ながら考えたんだ」
「なにをだい?」
「ここへ引っ越してくる前」
「うん?」
「月を見ては、秀孝を思い出していた」
「そうかい」
 アキラは怒らなかった。どう考えても、それだけで終わる話ではないからだ。だから隆輔に向かって身を乗り出すと「そんで?」と訊いた。
「うむ。寒い頃だった。年末の、いちばん日の短い頃だ」
 隆輔は思い出に浸るように半目になった。
「部活が終わって、帰ろうとすると、夜空に月があって、明るくて、きれいだった。俺は、まだ見てもいないのに、秀孝が天女になって舞う姿をいろいろに想像した。本もそろえた」
「んだな」
 アキラも何回か掃除の際に整頓してやったことがある。隆輔は読んだ内容をよく覚えているが、書籍そのものをあんまり大切にしない男だ。
「でもな」
 隆輔が顔を上げて、アキラをまっすぐに見た。
「俺は本当は、貴様のことを考えていたんだ」
 アキラは返事ができなかった。
「あのころ貴様が連絡をくれなくなって、俺は本当に残念だったんだ」

 いつかアキラは隆輔に、自分のどこが好きかと問うたことがあった。隆輔の答えは「あったかいとこ」だった。

 日没の早い年末の住宅街の片隅で、冴え冴えと冷たい月光を浴びながら、秀孝を思うふりをしてアキラの温もりを偲ぶ隆輔の姿は、アキラの脳裏を席巻するが早いか、鼻の奥をツンと刺激した。
 そのアキラの顔を見て、隆輔は眩しそうな目をした。それからまた硬い顔になった。
「でも、あのころ俺は、まだこれを貴様に見せてやっていなかった。それが俺の中で、……なんというか、負い目になっていた。正直に本当のことを言っていないのに、遠いところをまた会いに来てくれとは言えないと思っていた」
 アキラは目をしばたたきながら、不器用な奴だなと思った。でも、今日は正直に打ち明けてくれているというわけだ。しかし不器用な奴は正直すぎた。
「俺は、あの頃、まだ自分が聖一と二人で生きているつもりでいたんだ。いや」
 アキラは顔色が変わるのを抑えることができなかった。改めて言うことはないじゃないかと思った。しかし、そのアキラを見て、むしろ隆輔のほうが大きく動揺した。
「だから、それがそうじゃなかったって話なんだ」
 アキラは喘いだ。
「……なかった?」
 しゃがれ声で、やっとそれだけ言った。
「うん」
 隆輔が子どものように頷いた。二人は一瞬、無言で見つめ合った。それから隆輔が静かに続けた。
「俺は、あの頃、自分と聖一の間に新しい人間を入れることをいやがっているのだと思っていた。だから貴様に悪いような気がしていた。でも、本当は、貴様と俺の間に誰も入れたくなかったのかもしれない」
「……」
 アキラは無言のまま、弾みかけた心に「ぬか喜びするなよ」と言い聞かせた。隆輔が顎を軽くしゃくって窓を示しながら続けた。
「俺は秀孝が九年も前になくした人のことをずっと想い続けていると聞かされて、自分もそうやって生きようと思った。でも本当は、貴様にもう一度会いたいと、そればかり考えていた。去年貴様がずっと二人だけでいたかったと言った時には、俺もあの頃に帰りたいと思った」
 アキラは思わず手を膝から浮かせ、彼に向かって差し伸べかけた。すると、隆輔が物悲しい顔をした。
「なのに俺は、去年、秀孝から聖一を忘れることができたのかと訊かれて、できないと答えてしまった」
 アキラは自分が瞬間沸騰するのを感じた。思わず宙に浮かせた手を硬い拳に握った。あの野郎。
「そんなこと言ったのかッ」
 隆輔がふたたび動揺した。アキラは腰も浮かせかけていた自分に気づいて、座り直し、深呼吸した。
「だったら、なんでいッ」
 冷静に戻ったつもりだったが、声は震えていた。
「うむ。だから」
 と隆輔がいった。口調には自責の念がにじんでいた。
「俺は、似た者どうしで慰め合おうという彼の誘いに乗った。つまり、貴様に対して、二重に不実を働いた」
「ああ。かもな」
 アキラは彼の反省にはつきあわなかった。
「でも俺ァそれを許した。だから今もここにいるんだッ」
 声は、まだ震えていたが、説得力はあったようだ。隆輔が返す言葉をなくした。
「あんたの言うのはあれだろ? 去年の夏の話だろ? 俺に謝りに来たときのことだろ?」
「いや。……その後だ」
「じゃあ、……じゃあ、あんたが怪我させられた時かッ」
 アキラはもう我慢ならなかった。
「だったら尚さら許せねえッ。あいつはあんたの心のいちばん弱いところを突いたってことだ。試合で言やァ怪我したところだけ叩いたんだ。自分に勝ち目がねェのが分かったから卑怯な手を使ったんだ。それも土下座して謝ってるあんたの体に本当に怪我させたついでにってことだ、畜生、どこまできたねェ野郎だ! ちったァ感心してやって損したッ!」
 自分でも思いがけないほど強い声で、激しい言葉が口から弾け出した。が、隆輔の表情を見て、アキラは自分がすでに秀孝に手ひどい罰を与えたことを思い出した。で、ふたたび座り直した。深呼吸した。
「悪かった。もう怒らねェ」
「いや」
 隆輔の短い返事を聞きながら、アキラは項垂れ気味になった。すると視線の先に石上聖一の形見があった。そのかたわらには隆輔の膝があった。その上に置かれた彼の左手の薬指には、アキラとおそろいの金の指輪が光っていた。アキラは顔を上げた。

 あんたは、なにが言いてェんだ。

 無言の問いかけを隆輔が受けとめた。
「貴様は俺に一度も聖一を忘れることができたのかとは訊かなかった」
「ああ。訊くわけねェだろ」
「忘れてくれとも言わなかった」
「言わねェよ!」
 その代わり、ひどいスランプに悩んだことを隆輔もアキラ自身も知っていた。それでもアキラは石上のことで恨み言をいったことはなかった。聞かせないでくれればよかったのにと思いはしたが、口に出したことはなかった。
 いまの自分たちよりも若くして彼岸に旅立った石上が隆輔に与えた遺言が「早く自分を忘れろ」だったことを知ったとき、アキラが口に出したことは「そんないい人を忘れることができるわけはない」だった。

 石上は、自分自身の無念をおくびにも出さず、まだ若い恋人の将来を慮った。本当に忘れてもらいたかったわけはない。精一杯の虚勢を張って、カッコいい兄貴として思い出に残りたかったのだ。隆輔が忘れられるはずがない。もとより忘れていい人ではない。自分がそれを利用していいわけがない。アキラは本気でそう思っていた。

 だから秀孝の卑怯さは許せなかったが、その気持ちを籠めたとしても、やっぱりやり過ぎだったといえる程度の罰を、すでにアキラは秀孝に与えていた。しかもそのことを隆輔には黙っていた。が、良心の呵責ってやつに耐えかねて、自分から打ち明けてしまった。
 で、秀孝に恥の上塗りをさせてしまったが、アキラは謝った。秀孝は受け入れてくれた。彼からも謝ってくれた。そして今日、彼はアキラたちの前で見事な演技を見せた。

 アキラにとって、二年前の暮れに発した騒動は、今日ほんとうに「けり」がついたのだった。
 が、どうも隆輔だけがまだスッキリしないらしかった。アキラの目の前で、彼の唇がわなないた。そこからしゃがれ声がこぼれ出た。
「貴様は」
「うん?」
「充分に誠意を尽してくれた。でも、俺はそれに相応しくない」
「なんで」
「俺はまだ秀孝を忘れることができていないんだ」

 アキラは世界がグラリと廻るのを感じた。脳裏で秀孝の着ていた舞台装束の月光色と、赤い扇の色と、帰りがけに二人を包んだ透き通った茜色の夕映えと、冷蔵庫の中で冷えている紫タマネギの薄切りと、白い発泡ワインと、その壜の緑色と、隆輔のいくぶん浅黒い肌の色がひとつになって渦巻いた。自分の眼の焦点がふたたび隆輔の眼に合ったとき、アキラは言った。

「だったら、なんでいッ。その話もこないだしてやっただろ!?」
「ああ。そうだ。でも彼は舞台を下がったら、今日も一人だ」
「だから、あんたが俺を見捨てて飛んでいきたくなるってことかい? 俺ァいやだぜ!」
 隆輔の顔が一層強張った。アキラはたたみかけた。
「俺ァそんな卑怯な野郎に遠慮して、はいそうですかと捨てられるのァ、いやだぜッ!」
「ぐッ」
 隆輔の閉じた口の奥から奇妙な声が漏れた。彼の褐色の眼に困惑がにじんだ。アキラは勝機を見た。身を乗り出した。
「どうしたい?」
「いや……」
 道場に見立てた床の上で、なき人の形見の一振りを膝元に、いまだ道なかばの剣道家は、たっぷりと逡巡した。アキラはじっと待った。すると未熟者が眉根をゆがめて、つぶやいた。
「捨てられる、と言われるとは思っていなかった」
「どう言われると思ってたんだい」
 彼は深く項垂れた。
「俺は、自分に罰を与えればいいと思っていた」
「どんな罰だよ」
「どちらとも別れるんだ」
「へッ」
 アキラは理解した。
「それで、自分はまた石上さんと二人だけで生きていくって言うつもりだったのかい」
「う……うん」
 隆輔は顔を伏せたまま、子どものように頷いた。彼の広い肩の先が悄然と下がっていた。



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