宇藤花菱会

Japanese M/M Romance for 18 and over.

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成人向けM/M恋愛小説。
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俺たちの朝(2)

 「俺は幸せだ」と隆輔が繰り返した。

 アキラは自分の肩に顔を伏せた彼の首に腕をまわし、スーツを着た背中のまん中を赤ん坊をあやすようにさすり続けた。

 出勤前のひと時だ。長居はできない。しかしアキラは悪いことをしたと思っていた。確かにアキラはある感慨をもって廊下へ出る手前でふり返ったのだ。

 二度とここへは来ない。

 アキラは前の晩の自分の醜態を覚えていた。酒の酔いに浮かされて、やりたいことをやり、言いたいことを言ったのだったが、覚えていた。朝の光を浴びると、馴れた者どうしの呼吸で黙々と身支度と朝飯の仕度を整えながら、悪かったのはやっぱり俺だと思った。

 隆輔は悪くない。寂しい心どうしが引き寄せ合っただけだ。秀孝と。アキラが身を引く機会は何度もあった。隆輔は何度も修復を試みた。去年の夏の彼の涙に嘘はない。その彼を裏切ったのは俺だ。

 どんな言い訳をしても、アキラは秀孝を辱めることを愉しんだ。それが彼を追いつめた。深夜の海へ向かわせるほどに。彼は一見すると立ち直ったが、隆輔は悩み続けている。彼を捨て、アキラを選んだ自分を責め続けている。

 だから、この際はっきりとアキラが身を引くことを告げれば、彼らの間に新しい展開が訪れるかもしれない。

 隆輔は「貴様を取られるのはいやだった」と言った。だったら俺が取られなきゃいいんだ。俺がどっちにも未練を残さずにいなくなればいいんだ。いや、来なくなればいいんだ。そしたら、この長浜の町は彼らの町になる。

 俺はもともと旅人でしかなかった。一人旅の途中で隆輔の部屋に泊まり込む客でしかなかった。もう泊り込まないことにすればいい。ずっと前からそうすべきだった。

 いや、最初からとは言わない。出会ってからの数年間は楽しかった。とくに最初の三ヶ月は楽しかった。あの楽しさを長引かせようとしたのが間違いだ。もう一度味わおうとしたのが間違いだ。そうだ。間違いだった。俺は間違えた。

 隆輔と差し向かいで、彼の淹れてくれたコーヒーを味わいながら、彼がアキラの焼いてやったオムレツを食いながら時おり眼を上げて微笑するのへ笑顔を返しながら、そう思った。朝の光のなかで。

 だから、食器の後片付けも終えて、いつものように、当たり前に、手荷物を提げて部屋を出ようとして、振り返った。

 隆輔が選んでくれた部屋だった。海が見える部屋。アキラが自分でも忘れていた希望を彼が覚えていてくれた。そこに交際を開始して以来いちばん複雑な思い出が詰まってしまった。アキラは感慨をもって見渡した。そして隆輔の褐色の眼を見たとき、彼の顔色が変わった。

 アキラはあわてた。立っている人間が失神する姿を初めて見た。よりによって隆輔だ。まがりなりにも武道家だ。
「先生ッ」
呼んでいた。肘を取ると彼の眼がアキラを見た。と思ったら彼の体がストンと沈んだ。なんてこった。

 アキラはまず彼の体調不良を疑った。自分の父親の発病に気づかずにいたことが脳裏をよぎると、ゾッとした。救急車を呼んで、隆輔を入院させて、自分は今日の仕事を休んで、いや、休めないから退社のタイムカードを押したらこっちへトンボ帰りして……一瞬のうちに思い描いた。が、隆輔は顔を挙げた。冷や汗に濡れていた。しかし意識はあった。
「調子悪いのかい?」
「いや」
 声も出た。返事もできた。ただ、続きを言いよどんだ。隆輔がアキラに対して言い出しにくそうにすることは秀孝のことだ。アキラは咄嗟にそう思った。それだけアキラ自身の心に負い目があった。すると思いがけず隆輔が「幸せだ」と言った。

 俺は、どうしたらいいのか。

 アキラは初めて腹の底から迷った。今までも迷っていたが、こんなに深く迷ったのは初めてだった。迷ったからこそ隆輔を抱き締めた。彼を落ち着かせてやりたかった。ほんとうに体調不良ではない以上、仕事に行かせなければならない。自分もだ。

 隆輔はアキラの腕の中で「俺は幸せだ」と繰り返した。アキラはそれが文字通りの喜びの表出ではないことくらいは分かったが「だったら別れようぜ」とも言えねェなと思った。

 すると隆輔が、ふと顔を挙げた。「こうしちゃおれん」と、しゃがれ声で言った。「ああ」とアキラは腕をほどきながら返事をした。
「顔洗いなよ」
「うむ」
 廊下へ出るドアを開けて彼を先に通してやると、彼の歩調は常態に復したようだった。

 紺色のスーツジャケットを着た背を丸めて、彼が顔を冷水で洗うのを眺め、アキラはタオルを差し出した。彼は小ざっぱりした顔で微笑した。
「驚かせたな」
「もう大丈夫かい?」
「うむ」
 それっきり、なにも言わずに外へ出た。隆輔の重みを後席に親しく感じながら、アキラは愛車を走らせた。民家の間を流れる朝の空気は、早やほんのりと金木犀の香りがした。

 隆輔の勤め先はアキラには縁遠い私立の名門校だ。正門の見える辺りで隆輔を降ろすと、彼は慣れた手つきでヘルメットを収納した。顔を上げると、つぶれた髪に指を入れて整えながら「運転中は」と言った。
「うん?」
「貴様の気を散らさんように黙っていたんだが」
 いつものことだ。たんに寡黙な男だったのではなく、両親が車の事故でなくなったせいでもあったらしいことをアキラが知って、まだ一年経たない。アキラは愛車のスイッチを切って、頼もしい駆動音の響きをいったん黙らせた。
「なんだい?」
「七年経ったな」
「うッ」
 アキラは息を詰まらせた。重い過去を明かしてくれるようになって、まだ一年経たないが、出会いの年から数えて丸七年が経過したことを隆輔は覚えていてくれた。出会いの頃の空気を満たしていた花の香りがアキラの胸に運んだのと同じ感慨を隆輔の胸にも運んだのか。
 彼は微笑していた。アキラには不安があった。彼の次の言葉が読めなかった。自分の言うべき言葉も分からなかった。

 いい潮時だから別れようぜ? 軽い感じで「またな」? 深刻な感じで「俺がいなくても大丈夫かい?」

 隆輔がアキラの肩を片手で抱いた。小首を傾げてアキラの顔をのぞき込むと「俺はな」と言った。
「う、うん?」
「いつも、貴様がいつ来なくなってもいいように、素っ気なく振舞うことにしていた。でも、それは二度と大事なものをなくした思いをしたくないから、自分を守っていただけだった。貴様に寂しい思いをさせていたなら、すまん」
 アキラは口を開けて恋人を見つめた。
「今な。後ろで考えていたんだ」
 隆輔は微笑しながら顎をしゃくって後席を示した。声は低く囁くようだった。周囲を将来ある生徒たちが自転車で、徒歩で、まっすぐに学び舎へ向かっていた。
「そうかい。いや……」
 アキラも同じような声を喉から押し出した。
「もういいよ。そんなこたぁ」
「そう言ってくれるか」
「うん」
「そうか。ありがとう」
 隆輔が片頬に深い笑み皺を刻んだ。明るい眼差しで続けた。
「じゃあ、これからもよろしく頼む」
 アキラの顔色が変わった。隆輔が気づいた。
「……どうした?」
 彼は穏やかに問うた。朝日は高く昇り始めて、大気が夏の名残の熱を帯び始めていたが、アキラは身のうちから震えが湧くのを感じた。
「……いいのかい」
 声も震えた。
「ああ」
 隆輔が真顔になって深く頷いた。アキラを選んだ自分を責めていた彼が何かを決意したらしかった。アキラは胸が一杯になった。なにごとにまれ彼の決意を応援してやりたい気持ちと、自分はそれに相応しくないという気持ちがせめぎ合った。
 アキラは途方に暮れた。じつに情けなかった。隆輔がまた微笑した。
「言いたいことがあるなら言っちまえ」
 アキラは叱られた子どもが泣く寸前のような気分になった。気分だけじゃなく、おとなぶった髭面が実際にそういう顔になった。
「だって俺ァ……」
「うむ?」
「ほんとにあいつに悪いことしたんだぜ。あんたにもちゃんと謝ってねェ」
 隆輔がまた真顔になって頷いた。
「貴様もそう思えるようになったってことだ」
「……そうかな」
「うむ。貴様にも余裕ができたんだ。きのう言いたいことをぜんぶ言うことができたんだ。俺は自分のだめなところをぜんぶ貴様に見せた。だから、ここからやり直そう。やり直すために別れるか仕切り直すかしかないなら、俺はもう二度と貴様の前でこれ見よがしに悩んだ顔をしないことを選ぶ」

 彼の声は穏やかだったが口調は確かだった。アキラは自分の心が竹刀で打たれたように感じた。

 それはアキラが二度と秀孝を恨まないということでもある。隆輔の心を惹きつけて離さない彼をうらやみ、嫉妬して、泣き叫んだりしないということでもある。それは激しい恋の季節の終わりでもある。自滅的な、自傷的な、暗い陶酔の終わりでもある。
「……分かった」
 アキラは低く答え、深く頷いた。それは、あるいは交際自体の終わりに向かうコーダのようなものかもしれない。ゆっくりとテンポを落として、音量を落としていく。冬を準備する秋のようなものなのかもしれない。それを味わいたくないなら、いま別れを告げればいい。しかし。
 別れの予感に卒倒する奴を置き去りにはできない。アキラは自分の肩に手を置く男の眼を改めて見た。透徹した決意の装いの陰に怯えと慙愧を秘めた褐色の両眼。アキラはまだ七年前の出会いの日に最初に彼と視線を合わせた時を覚えていた。アキラはできるだけ明るさを取り戻したふりをした。髭面を歪ませて、ニッと笑った。
「じゃあ、また来るぜ」
 いつもの別れの挨拶だった。
「ああ。また来い」
 隆輔がアキラの肩から手を離して一歩さがった。
「じゃあな」
「気をつけろ」
「おう」
 アキラは再びエンジンを始動させた。

俺たちの朝。

目覚めると、アキラが「おはよう」と言いながら、寝床の中で両手を突き上げて大きく伸びをした。「うーーん」と唸ると、腹筋の力でむくりと上体を起こした。

いつものことだ。一度だけ彼のログハウスに泊まった時もそうだった。彼の毎日は、そうやって始まるのだろう。

隆輔もいつもと同じように起き直ると、身支度をした。台所へ移動すると、アキラが朝食を用意する横でコーヒーを淹れた。差し向かいで着席すると、食って、飲んだ。その片付けも済ませると、一人は黒革のライダースジャケットを着て、一人は紺色のスーツジャケットを着て、それぞれに手荷物を提げて、リビングを横切った。それぞれの職場へ向かうためだ。廊下へ出る扉の手前で、ふと、アキラが振り返った。

リビングを一望し、キッチンを眺めて、隆輔の顔を見た。隆輔を強い既視感が襲った。

隆輔が学生時代に借りていた狭い部屋を、石上聖一が出ていこうとして、振り返った。畳張りの木造アパート。染みの浮いた壁、色あせた襖の唐紙。めずらしくも美しくもない室内を見渡し、隆輔の顔を見て、にこりと笑った。近眼の彼の眼は黒く潤んで明るい光を湛えていた。それが最後だった。隆輔が彼を見た最後だった。

「先生ッ」

気がつくと、アキラに肘を取られていた。膝の力がカクンと抜けた。

隆輔は、畳ではなく樹脂塗装されたフローリングにくずおれた。アキラが膝をついて隆輔の顔をのぞきこんだ。
「どうしたい」
隆輔は喘いだ。アキラの肩をつかんだ。彼の首のつけ根に顔を伏せた。全身が冷や汗に濡れていた。小刻みに震えた。アキラが隆輔の肩に両腕をまわした。

彼の温もりと、息遣いと、鼓動の音が、隆輔に体温と正気を取り戻させた。顔を上げると、髭男は心配そうに眉をひそめていた。
「大丈夫かい?」
「……ああ」
隆輔は笑おうとしたが、うまく行かなかった。アキラの手が頬に触れた。彼の額が隆輔の額に触れた。
「調子悪いのかい?」
「いや」
隆輔は首を振った。
「体は悪くない。ただ……」
「なんだい?」
聖一の名を言おうとした舌を何かが押しとどめた。脳裏のどこかで鱗紋の摺箔がきらめいた。

自分が彼の部屋を出たあの朝、残された秀孝の思いはどのようなものだったろうか。

アキラの掌が隆輔の髪を撫でた。子どもをあやすようだ。彼は何も言わなかった。その黒い眼の湛えた寂しそうな光が隆輔の胸を詰まらせた。半開きにした唇がひどく震えた。俺は何を言おうとしているのか。
「なんか、思い出しちまったんだね」
アキラが言った。なにかが伝わったように。
「ああ……」
隆輔は溺れる者のように彼の声にすがった。
「そうだ」
後が続かなかった。アキラの掌が背中をさすってくれた。
「俺は」
隆輔は言葉を思い出した。
「幸せだ。貴様がいてくれるおかげで」
アキラの眼が一瞬明るく光った。頬に赤みが射した。隆輔は言ってよかったと思った。脳裏のどこかで般若の面が泣いた。

しかし、その後ろにいた人物は、いま隆輔の師匠だ。幻の存在ではなく、幽霊でも妖怪でもない。隆輔は次の稽古日に彼に会って、アキラとの間にこんなことがありましたと告げることはできない。その必要もない。これはただ、アキラと隆輔の間の出来事であり、二人だけの秘密だ。

「聖一が」
隆輔は言った。アキラが顔色を変えて息を呑んだ。
「振り返ったんだ、今の貴様みたいに。最後に会ったとき。俺はいままで忘れていた」
隆輔は、ふと目を閉じた。まぶたの裏に聖一の笑顔が見えた。
「思い出させてくれた。貴様が」
隆輔はアキラの肩をつかんで、腰を上げた。まだ少し膝が震えた。
「ありがとう」
立ち上がると、何に対してともなく言った。笑ったつもりだったが、アキラは小首を傾げて気遣わしげに隆輔の顔を見た。
「ごめんな」
「ん?」
「俺、今日は休めねェんだ」
「うむ? 俺だってそうだ」
「だって、大丈夫かい?」
「ああ。大丈夫だ」
急にアキラが思いつめたような顔をすると、隆輔に体重を預けるように上体を傾け、隆輔を力いっぱい両腕で抱き締めた。隆輔は彼の体重を受け留めて、彼を抱き返した。

そのまま、しばらく抱き合っていた。

更新しました。

ご無沙汰しております。今年の桜を見ながら、その後の人々の様子を書き足しました。本館(サイト)に挙げてございます。劇中は秋です。『月下の手向』から続いております。ご清覧を賜れば幸いです。

『鐘下記』 全3話。別サイトへ飛びます。同窓で開く設定にしてございます。ご注意ください。

月下の手向(5)

 隆輔は深く項垂れていた。もう言えることがなかった。聖一と二人だけの暮らしに戻るといったが、その資格もないように思えた。
 ふと気配を感じて顔を上げると、アキラが手を伸ばしていた。彼はいつの間にか膝を進めて、隆輔との間を詰めていた。隆輔は反射的にその手を、よけなかった。

 アキラの大きな手は、子どもをあやすように隆輔の頭頂部を撫でた。
「勝ったほうが後味が悪いってこたァ、あるよ」
 彼の口調は穏やかだった。
「俺もそうだった。すぐにやり過ぎたと思った。でも、あいつ自身があんたに知られたくないだろうと思ったから、あんたには言わずにいた。でも俺ァ、結局自分からあんたにみっともないところを見せちまった。そんで、あんたに許してもらった」
「……うむ」
「だから、俺があんたに愛想を尽かすことはないよ。あんたが何度でもあいつのことを思い出しちまうってなら、あんたもそれだけ悪いことをしたと思ってるってことだし、それはあんたがまた同じ失敗をしないように気をつけてるってことだろ」
「……そうだろうか」
「うん。反省するってそういうことだろ」
「反省」
「うん。あんたは反省してるんだ。あいつに可哀想なことをした。俺にも悪いことをした。石上さんにも顔向けできねェことをした。去年からずーーっと、何回も同じことを考えてきたんだろ」
「うむ……」
「修行っていうなら、それだって修行のうちさ。あんたはそうしたきゃ、ずーーっとそうしてたっていいんだ。俺は、確か、あんたにもうあいつのことは考えないでくれって言ったこたァねェと思うぜ。あいつをあんまり甘やかすなとは言ったけどね」
 隆輔は記憶のページを指先で弾くように捲った。
「……うむ。ないな」
「うん。たぶんな」
「そうすると、どうなるんだ」
 アキラの手が隆輔の頬へ移動した。
「あんたァ気が済むまで反省してりゃいいさ。あいつと同じ気持ちになったつもりで、昔の人のことだけ考えて、修行に励めばいいさ」
「いいのか」
 隆輔の胸は痛んだ。自分から言い出したことが、ついに受け入れられたようでありながら。しかし、続きがあった。
「その代わり」
「む?」
「俺にお願いさせてくれよ」
「お願い?」
「うん。俺をあんたのそばにおいてほしいんだ」
 隆輔は呆気に取られた。
「……なんだと?」
「あらためてお願いするよ。俺にあんたの世話をさせてくれ。毎日は来れねェけど、飯のしたくをさせてくれ。夜の相手もさせてくれ。あいつにゃあ悪いかもしれねェが、俺も主人を二人持つ気はねェんだ」
 隆輔は返す言葉を見つけられなかった。
「なんなら、あんたの命令で、あっちに貸し出してもらってもいいけどな。でも、あっちのほうで受け取ってくれねェと思うぜ」
「そんな」
 隆輔は首を横に振った。
「そんなことを、言ってるんじゃ、ないんだ」
「じゃあ、なんだい? やっぱりあっちと縒りを戻したいのかい?」
「そうじゃないッ」
 隆輔はアキラの手を頬から振り払うように首を横に振った。すると彼の手が隆輔の顎を捉えた。彼は低く言った。
「俺はお願いしてるんだよ」
「うッ」
「あいつが九年も十年も前に死んだ人に義理を立ててるのが可哀想だってなら、俺だってこの六年間あんたのことを考えなかった日はないんだよ」
「……」
「あんたがあいつに遠慮する気持ちに俺が遠慮して身を引くのが本当かもしれねェ。あんたの気持ちを分かってやるのが本当にカッコいい奴なのかもしれねェ。でも、俺ァそこを無理にお願いしてるんだ。俺の我がままを聞いてくれ」
「貴様」
 隆輔は顔色を変えた。
「自分が責任をかぶろうとするな」
「かぶってねェよ。あんたがうんと言ってくれりゃ俺たちは共犯だ」
 隆輔はふたたび絶句した。
「俺に……」
 アキラに顎を捉えられたまま、彼の黒い眼を見返しながら、喘ぐようにこぼした。
「覚悟が足りないってことか」
「俺と一緒に泥をかぶるのはいやかい」
「泥をかぶって、旨いものを食うなんてことがあっていいのか」
「旨いものを食うってそういうことだろ。自分が食っちまえば、最低でもそのぶんは人にはやれねェんだ」
 隆輔は脱力を感じた。
「そうまでして、食ったものは、旨いと思うか」
「そりゃ分からねェ。食ってみねェと」
 まだアキラの手に顎を押さえられたまま、隆輔の眉に「無責任な」という思いが出た。「そうさ」とアキラが見透かしたように言った。
「自分は卑怯だって気持ちと一緒に飲み込むものは、苦いかもしれねェ。味がしねェかもしれねェ。それでも栄養にァなるだろうよ。でも来年になったら見るのもいやになるかもしれねェな。いまのあんたの気持ちはどうだい。俺と一緒に食ってくれるかい」
「まるで脅しだ」
「脅してるんだよ。俺だって崖っぷちだぜ」
「崖」
「うん」
 隆輔の視界で、アキラの怒りをはらんだような顔と、自分の足が彼を崖っぷちから蹴落とす幻影が重なった。隆輔は身震いした。
「分かった」
 短く答えた。
「そんなことはできない」
 脳裏のどこかで、秀孝が横目使いをしながら冷笑したようだった。
 眼前のアキラは、目に見えて安堵したようだった。厚い肩が脱力した。あからさまに太息を吐いた。濃い眉が「八」の字を描き、その下の目がせわしなく瞬いた。
「貴様も分かりやすい男だな」
「あんたほどじゃねェよ」
 彼はクスンと鼻を鳴らし、拳で鼻下をこすると、前のめりになって、顔をしかめた。
「しびれた」
「無理に立つな。捻挫する」
「知ってるよ」
 ふたたび肩を怒らせて痺れに耐えながら負け惜しみをいう元柔道部員を下目使いに見おろしながら、隆輔は聖一の形見を手に立ち上がった。
「しまってくる」
「おう」

 獣のように唸り声を挙げる髭男を背後に残して、隆輔は寝室に入った。クローゼットの扉を開け、その前に座り込むと、刀剣保管庫の金属扉を開け、白木の内扉を開けた。聖一の形見の柄を叩いて目釘を外し、朴の木の白鞘に刀身を収め、拵えを磨いた。

 聖さん。

 胸中で語りかけた。アキラに一本取られちゃったよ。ぼくの見たとこ3本くらいだね、と聖一が微笑して答えた。彼は隆輔の胸中にいるようでもあり、生者のように傍らに座っているようでもあった。
 あいつと俺を会わせてくれたのは、あんたかい?
 どうかな。
 そうだね。だったら秀孝と俺を会わせたのもあんたってことになってしまう。
 そうかもしれないね。でも、ぼくにはそれほどの力はないよ。
 うん。そうなんだ。
 隆輔は石上の家紋を象った鍔を磨き続けた。
 本当はあんたの知らないところで俺自身が新しい人々に出会って、自分がいちばん正しいと思う道を自分で選ぶことだったんだ。俺はあんたを言い訳にしてしまった。
 そうだね。
 ごめんね。
 いいんだよ。
 隆輔は目をしばたたいた。
 アキラはあんたの刀を見て、礼を言ってくれたよ。
 うん。ぼくも嬉しかった。
 いい奴だよね。
 ああ。いい人だ。
 隆輔は手を止めて石上の家紋に見入った。誰かの紋服の胸にある下がり藤の家紋が重なった。
 俺は秀孝が自分を頼ってくれたことが嬉しかったんだ。
 そうだね。
 そのことに自分が頼ってしまった。
 そうだね。
 アキラを斬り捨てて、俺の心の中にだけある板ばさみのつらさから逃げようとした。
 そうだね。
 もし、彼がああ言ってくれなくて、秀孝が本当に新しい相手を見つけていたら、俺はみじめだったろうね。
 そうだろうね。
 秀孝はやっぱり魅力的なんだ。出会い方が違えばよかったというのは嘘じゃない。
 そうだね。
 隆輔は顔を挙げた。そこに聖一がいるかのように空間を見つめた。
 彼が訊いたことがあるんだ。
 なんだい?
 あんたは本当は俺に忘れてほしくなかったんじゃないのかって。
 幻影は答えなかった。困ったような顔をしていた。
 どうなの?
 幻影は項垂れた。羞恥が頬に浮かんだ。
 ……うん。本当は、ずっと覚えていてほしかった。
 俺があんたを忘れるはずないって分かってて、わざと言ったんだね?
 うん。カッコつけたかったんだ。
 そうか。やっぱり。
 隆輔は晴れやかに笑った。幻影がはにかんだように微笑した。じゃあ俺は、と隆輔は胸中で続けた。
 あんたを忘れようとしなくていいんだ。
 うん。本当はそうなんだ。ごめんね。つらい思いさせたね。
 いいよ。
 隆輔は深呼吸した。手にしていた刀剣の細部を保管庫の小抽斗に丁寧に並べた。内扉を閉めた。金属扉を閉めた。立ち上がると、クローゼットの扉を閉めた。そこが聖一の胸でもあるかのように額を寄せて目を閉じた。
 あんたとこんなに長い時間話せたのは初めてだ。
 そうだね。
 アキラのお陰だ。
 そうだね。
 彼のところへ行くよ。
 ああ。そうしなさい。

  隆輔はクローゼットの前から離れ、リビングへ通じる扉を開けた。

 アキラが隆輔に背中を向けて、食卓についていた。とうに料理を並べ終わって、先に食い始めていたわけでもなく、キッチンの出入り口から近いほうの椅子に座って、頬杖をついて、身動きせずにいた。
 上座にあたる席を隆輔のために空けて、隆輔が聖一と二人だけで過ごす時間に遠慮して、黙って待っていてくれた。
 隆輔の胸に、熱い情緒が広がった。アキラの名前は朝日を意味する。
 暗い背景に浮かぶ月のように女面の大写しにされたポスターを場違いだと見た日から始まった隆輔の迷い道は、見失いかけた自分自身の居場所をふたたび見出す日に通じていたようだ。
「アキラ」
 隆輔は声をかけた。アキラが弾かれたように振り返った。
「おう、先生」
 彼の髭面が明るい笑いに崩れた。彼の名前は朝日を意味する。
「待たせたな」
 隆輔はアキラに向かって踏み出した。

 

-月下の手向 了-



月下の手向(4)

 アキラは静かに溜息をついた。石上さんよ、とふたたび腹の中で語りかけた。

 あんたの弟は不器用だなァ。

 うん、とアキラの世界のどこかで石上聖一がはにかんだように微笑んだ。ぼくはそこが好きだったんだ。俺もきらいじゃねェよ、とアキラは答えた。それから「先生よ」と口に出して呼びかけた。隆輔が顔を上げた。急に憔悴したようだった。
「だったらさ」
 アキラは静かに彼へ言った。
「どうしてもう俺に愛想が尽きたって言わねェんだい?」
 隆輔が目を見張った。アキラは秀孝の実家でもある能舞台のある方角へ顎をしゃくり、石上の形見を目線で示した。
「今日あっちの先生が立派なお舞台を見せてくれたから、自分も心を入れかえて剣の道にはげむことにしたから、お前なんか修行の邪魔だからもう来るなって言やァいいじゃねェか」
 隆輔が口を「へ」の字に歪めた。
「それとも、お前なんかただの家政夫だって言ってくれてもいいんだぜ。そしたら俺が腹を立てて、こっちから願い下げだって言って、すぐに出て行くかもしれねェぜ?」
 隆輔の膝に置いた拳が震えた。彼は搾り出すようにしゃがれ声でつぶやいた。
「……嘘は、つけない」
 アキラの胸にじんわりと温かいものが広がった。自分でも思いがけないほど口調が穏やかになった。
「そうかい。あんたらしいや。でもさ。本当のことを全部ぶっちゃければ、俺が納得するとは限らねェわけだろ」
「でも、俺は、試合で全力を尽くさないのは相手に失礼だと教わったんだ」

 いや試合じゃねェしと思ったのは、アキラは口に出さなかった。嘘も方便で駆け引きするのも全力を尽くす内だろと思ったのも口に出さなかった。
 おととしの暮れには下手な駆け引きをして俺をごまかそうとしたくせにと古い恨みを蒸し返すのもやめた。
 学校の生徒相手だったらもう少し器用に話をする方法も知っているだろうに、あんたは心のどっかで俺を石上さんと間違えてやがるんだと思ったのも口に出さなかった。
 そんなことで石上さんが喜ぶのかいと訊くのもやめた。誰かみたいに彼の遺言をだしに使って自分を売り込むようなことはしたくなかった。だから自分の気持ちだけ言うことにした。

「だったら俺も本当のことを言うよ」 
 アキラの声は静かだったが、隆輔の喉仏はゴクリと動いた。
「俺が、あんたと自分とこの世に二人だけのような気がして、最高に幸せだったのは、最初に会った日の夜と、初めてあんたの部屋に上がらせてもらった時の、その2回だけさ」
「……ッ」
 隆輔の全身に震えが走った。アキラは頷いた。
「あんたは昔の話をしてくれねェ奴なんだなって、すぐに気がついたんだ。子どもの頃の話とか、学生ん時の話とか。でも、いろいろあったに決まってるから、俺も黙ってることにした。いろいろあったんなら、尚さら今が楽しいほうがいいもんな」
 隆輔が鋭く息を吸った。
「でも俺ァ、そのうちに、あんたの仕事の邪魔になってるんじゃねェかって、そっちのほうが気になるようになった。だから、だんだん連絡を入れるのが遠くなった。あんたからもあんまり言って来なかった。それでも時々、がまんできなくなったんだよ。だから」
 アキラは思い出しながら、しんみりした気分になった。だんだん項垂れた。
「だから、天気がいいからとか、季節が変わって花が咲いたからとか、言い訳を考えて、みやげになるような旨そうなものを売ってるとこを探したりして、そうやってバイク転がして来るたびに、ビクビクもんだったよ。今度こそ終わりにしてくれって言われるんじゃねェかなって」
 隆輔が小さく首を横に振ったようだった。
「そんでさ。あんたが3年生の担任になってさ。部活のほうも連勝中とかでさ。土日も補講とか試合とかで全然休みねェし。俺ァもう本当にやめようと思ったんだ。でも、1年くらい過ぎてみたら、あんたのことを考えない日はなかったなって思ったんだ。だから、せめて暮れの休みの間だけでも一緒にいさせてもらいてェなと思って、そんで電話したんだ」
 アキラは顔を上げた。隆輔の眼が潤んでいた。
「あんたァあん時ァまだあいつに手が届かねェと思っていた。だから俺で手を打ったってことだよな」
 隆輔が眼を潤ませたまま顔色を変えた。
「そういう言い方をするな。俺は本当に」
「本当に、俺を待っててくれたのに、今ならあいつに手が届くから、俺を捨てるって話だろ?」
 アキラはいくらか意地悪を言った。正念場だった。口調は静かだったが、隆輔は怒鳴りつけられたかのように身を震わせた。
「ちが……ッ」
「じゃなんだい」
「俺は、一人になって」
「修行のやり直しかい。自分の面倒も見られねェくせに」
 隆輔は一瞬言葉に詰まると、プイッと横を向いた。
「俺だって、やればできるんだ」
 すねたらしかった。
「自分の気持ちの面倒ってことだよ」
 アキラが言ってやると、振り向いた。なにか言い返しかけて、ふと脱力した。
「どうしたい」
「彼には、こんなふうに喧嘩できる相手もいないんだ」
 アキラは切り札を切ることにした。
「そりゃ分かんねェよ」
「なに?」
「考えろよ。あんたと俺だって、盆暮れと、あとは何ヶ月かにいっぺんしか会ってねェじゃねェか。あいつだって、そのくらいの相手なら、もう見つけてあるかもしれねェぜ? 奴はそれをあんたにいちいち報告する義理があるのかい? 日誌でもつけさせてるのかい、監督さんよ」
「いや……」
 隆輔は完全に虚を突かれたという顔をした。
「でも、彼は一人で身を慎んでいるはずなんだ」
「あんたと約束したのかい」
「いや……」
 隆輔の眼に逡巡が影をさした。
「約束は、していない」
「じゃあ分かんないよな」
 隆輔は項垂れ気味になって眉をひそめた。そして思いついたように顔を上げた。
「いや、そうじゃない。そうじゃないぞ」
「なにが」
「彼が新しい相手を見つければいいって話じゃない。俺は自分を許せないから」
「俺を捨てる自分は許せるのかよ」
「う……ッ」
 隆輔は形のいい眉毛を「八」の字にして、その下から途方に暮れたような眼でアキラを見た。
「どうして、愛想を尽かしてくれないんだ」
「あんたと同じさ」
 彼はひどく困ったようだった。あまり見たことのない顔だな、とアキラは思った。彼はゆっくりと項垂れた。石上の形見を見た。
「俺は」
 とつぶやいた。
「こうして貴様と会っているのに、彼のことばかり考えている」
 うんうんとアキラは頷いた。
「彼には師匠らしさを求めておきながら、自分だけ貴様の手料理を食って、今日も貴様と一緒に寝床へ入ろうとしている」
 うんうんうんとアキラは頷いた。
「俺は」
 隆輔が顔を上げた
「貴様を彼に盗られたくなかったんだ」
「うん?」
「彼を海から拾ってきた夜が明けたとき、俺は貴様が彼になにをしたのかに気づいた。自分の身内が悪いことをしたと思って、自分を責めた。でも同じくらい彼に嫉妬した」
 アキラはいくらか決まりが悪くなって鬚の上から頬を掻いた。
「俺はあの時、秀孝は俺のものなのに貴様がけがしたと思ったんじゃない。貴様のその鬚面を思い出しながら、あいつは俺のものだと思ったんだ」
「そ、そうかい」
「だから彼自身のために彼をほうっておけないという気持ちと、すぐに貴様に会いに行きたい気持ちの板ばさみになった」
「そうかい」
「だから彼に、師匠らしくしろと口でハッキリ言ってやったわけじゃないが、そういう形をつけておいてから、実際に貴様んとこへ行った。わざと声も出したし、体も使った」
「ああ……そうだったね」
 隆輔の目元が紅潮した。そのくせ彼はアキラから眼を逸らした。
「そして俺は今日、自分の判断が間違いではなかったことを確認した。なにもかもうまく行ったんだ。彼は正道に立ち返り、俺は望みのものを手に入れた。なのに」
「なんか悪いことしたような気がするわけだね」
「うん」
 隆輔が子どものように頷いた。



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